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[掌編小説]さとり

 むかしむかし、山に足を踏み入れれば妖怪に出くわすころ、「さとり」という妖怪に出会うのも珍しくなかった。知られた話では、こちらの考えを読んできて気味が悪いが、人間が「さとりを捕まえてやろう」と考えると、さっさと逃げてしまうそうだ。

 さて、現代。さとりも何代か続いて、変わったのも出てきた。おおかたのさとりは黒い長い毛を生やしているが、このさとりは茶色い毛色をしていてだいぶん小柄だ。知らないものが見れば大きな猿のよう。しかし見てくればかりでなく、このさとり、人間のところへ行くという。
 まわりの者は皆、「つまらないことにしかならないからやめろ」と止めたが、このさとりは「味を見てくるよ」と言ってさっさと行ってしまった。

 暗い山から走って走って光が差すようになると、木々の切れ間に最初の人間を見つけた。一人なのは都合がいい。話に聞いた通り、毛をむしった猿のようで、毛の代わりに布というのを巻き付けている。頭と顎にはわずかに毛があって、顔はしわしわとよれている。

 さとりは、頭の中を読んで脅かしてやろうと、この人間に近づいた。
 「おまえ、次の見晴らし台で休憩しようと考えているな」と言ったつもりだった。出したはずの声はのどに引っかかって、息も出ていかない。もう一度と試すが、喉が閉まるばかりで声が出ない。

 そうこうしているうちに人間はこちらに気付き、「でかい猿だ。刺激せずにさっさと行こう」と考えて、素早い身のこなしで行ってしまった。
 さとりは、猿と思われたことにだんだん腹が立ったが、人間はすでに見えなくなっていた。しかしそれより、声が出ないのをどうにかしようと、追いかけることはしなかった。

 思えば、声なんて出したことがない。出す必要がないのだもの。
 「ああ、ああ」とやってみるが、小さかったり大きかったり思い通りにいかない。
 「おいおまえ。おいおまえ」と何度も声に出してみる。どうにも思ったようにいかない。これでは、人間の言葉というより、獣のうめき声だ。獣に思われるのはしゃくだなあ。

 太陽がてっぺんを超えると、上へ下へ山を歩く人間が増えた。夜までまてばよかったかなと思いながら、さとりは一人でいる人間を選んでいた。
 しかし、手ごろなのはいなくて、仕方なしに、人の切れ間に見つけた男と女の二人連れの前に、のそりと茂みから出た。

 「おい、おまえら」
声はいい調子だと思った。二人も怯えている様子。
 これはいけるぞと男の方の心を読んだ。

「おまえ、猿がしゃべったと考えているな」
また猿と間違がわれてむっとくる。男の顔色は蒼い。ふん、いい気味だ。
「気味の悪い猿だと考えているな」
猿じゃないけどな、と思いながら視線は男を捕らえて離さない。男はゆっくりと動いて体を向き直した。

「ユリを守らないとと考えているな」
ユリというのは、すっかり男の後ろに隠された女のことだろうか。
「ユリにだけは怪我一つさせたくないと思っているな」
「なんだこいつは、襲ってこないのか?と考えているな」
「山頂で、好きだって伝えるはずだったのに、何に巻き込まれているんだ、と考えているな」
「考えを読まれている。恥ずかしいからやめろ、と考えているな」
「ほんとやめてくれ。それといろいろ台無しだ、何がしたいんだっ、と考えているな」
続けざまにまくし立ててやった。
 男はこちらから目をそらさずにいるが、蒼かった顔は真っ赤になっている。

 「おまえは」と言いかけたときだった。
「そういうのは、本人の口から聞きたいのよ!」
という怒声とともに女が何かを投げた。すると大石がひゅっと音を立てて耳元をかすめた。視線を戻すと、女が男よりも真っ赤な顔をして、そこら中に落ちているものを手当たりしだい投げてくる。

 たまらず、頭をかばいながら逃げ出した。最後っ屁に少し振り返って、
「ばかばか間抜け、余計なことして。私だって好きって伝えるつもりだったのにと考えているな」
と言ってやると、女の投げた水筒が顔に当たった。
 さとりは、「人間は急に暴れだすおっかないものなんだな」と山奥の住処へほうほう帰っていった。

 男と女はその後結婚した。

おわり

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