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死に様を考える

暑いですね!って、私は全く外に出ていませんが…(笑)部屋にいても、冷房の設定を甘くすれば、東京のビル群の中は暑いですけどね。

ちょっとまた死について、いや死に様…かな、まぁそんなものを考えるはめになったので、今日はちょっと書いておこうと思います。

そもそも私自身の
死生観を書いてみます

私は低体重で生まれ、黄疸も出て、生まれたばかりでちょっと死にそうになったそうで…。その後もなんとなく弱いムードはあったけど、実は大きな持病はなかったですね。

しかし家庭環境が微妙だったから、小学生に入ったくらいには、もう神経性胃炎の繰り返し。突発性難聴とか、ストレスなのか急に目の見えが急に悪くなったり、足に力が入らなくなったり…なんてことはあった。今の子たちの先駆けね。

そんな私も高校に入ってから、学年が上がるごとに元気になりました。家を出て、自活できる方向に進んでいってる感じが、あったからだと思う。20歳超えればこっちのもの!と思っていたから、4年制大学には行かず短大を選んで、短大を卒業した夏には、逃げるように北海道へ向かいました。

思えば北海道に住んで、初めて「ご飯って美味しいんだ!」と思ったし、安心して眠れて、少し太りました(笑)身長160cmで40kgなかったんだから、かなり痩せていましたね…。

その後、京都に住んで、結局いろいろあって東京に戻りました。でももうほとんど実家にはいなかったかな。

東京に戻って、何ヵ月も経たないうちに、体調不良で医者に行ったら「がんかもしれない。検査しましょう。」と言われました。若かったから、医者はかなり焦っていた気がします。

若い時は、がんなんて自分とはまだまだ無縁なものって、思っているじゃないですか。だから相当びっくりしましたね。結果が出るまで2週間かかりましたけど、いろいろ考えました。

私は「よく不良グループに入らなかったね」と、大人からも言われていたし、なぜか「コンクリート詰めにされないでよ!」と、友人から心配さていました。もし男だったら暴走族の特攻をやりたかった…と思っていたくらい、その日暮らしな考え方だったんです。

だからがんと言われても、死にたくないとかそういうのは全くなかったけど、生きるならばどう生きるべきなのか~とか、生きるとは何なんだろうとか、そういうことを考えていました。

結局がんじゃなかったけど、その1年後くらいにまた「がんかもしれない」と言われ、2週間待って「大丈夫でした」と言われました。

そもそも、私の育ての親である祖父母は、大正生まれで、完全に第二次世界大戦はバリバリに参戦していたし、祖父は戦後に刑事をやっていたので、生死についての取り扱いが、私の親世代とは違います。いつ死んでもいいように、毎日精一杯過ごすという考えが、いつしか身に付いていた気がします。

その考え方と、祖母の一昔前の超厳格教育のせいで、私は長年完璧主義と、その日のうちに絶対に全部やらなきゃならない、という考え方から抜け出せなかった…とも言えます。かなり苦しみました。

解き放されてよかったけど
死生観はあまり変わらない

私は27歳で出産しましたけど、親族には一切伝えませんでした。伝えないというか、戸籍もそれ以前に黙って抜いていたので、行方を眩ました中での出産でした。

私は今まで最年少の立場が多くて、赤ちゃんというものを初めて抱っこしたのが、自分の子どもでした。

翌年に2人目が生まれ、その2年弱後に3人目が生まれました。その間に2人目に身体障害があることがわかり、1人目も~になり、3人目も~になりました。そうこうしていたら、脳腫瘍が見つかりました。やっぱりストレスは大病の原因になるのかも。…脳腫瘍と言われた時に、まず私が思ったことでした。

それから数年して、がんが見つかりました。「がんです」と言われた時、「今度こそ本当にがんか!」とガッツポーズをしてしまったので、医者に驚かれました(笑)

死ぬ率が高いと説明を受けたけど、結局生き延びました。

私は2番目の子どもに障害があるとわかった辺りから、やっと「いつ死んでもいいや」とは思わなくなっていたけど、それでも病気ならばしょうがないか~と思っていました。

がんの治療はごく普通のことになってきていたけど、生態系を崩すことに思えて、あまり乗り気ではなかったんです。でも小4、小3、小1の子のことを、働きながらダンナがみるのは無理だと思ったし、なにより1人目と2人目の進路の選択はダンナには任せられない!!と思っていたので、治療をすることにしました。

たぶん私が子育てできない状態になったら、ダンナは2番目の子のことを、施設に入所させるだろうと思っていたので、ある程度のことが自分でやれるようになるまで、そして進路を決定するまでは生きれればいいな~と。でも、やっぱり死んじゃったら死んじゃっただな、とは思ってましたけどね(笑)

即死したいか
徐々に死にたいか

私はがんになってみて、がんで死ぬことは、私に向いているんじゃないかと思ったんです。私は即死やぽっくり死ぬのはイヤだなと思いました。

がんはすぐには死なない。比較的元気な時に、がんと言われるから、言われた時点かはしばらくは普通に動けます。ということは、その間に行きたい場所にも行けるし、会いたい人にも会える、ヤバい持ち物とかも処分できる。段々と死に向かっていくのは、あぁ~こうやって死んでいくんだなと思える。

みんなそんなものじゃないかな~と思っていたら、ダンナは違うそうです。「俺ががんだとわかったら、俺には伝えないでくれ。」と言われました。(まぁ今の病院は、まず本人に伝えますけどね)とにかく即死がいいそうです。

そして、私の祖母もぽっくりを希望していて、本当にぽっくり亡くなりました。発見場所がトイレだったのがちょっと残念で、本人もちょっと無念だったかもしれないけど。それでも私は「ばあちゃんの念願が叶ったね!おめでとう!!」と、死に顔を見ながら思いました。

ただ、本人はぽっくりでよかったかもしれないけど、一緒に暮らしていた私の母の生活費も握っていた祖母は、エンディングノートどころか、何も書き残してもいなかったので、祖母の葬式代と、母のこれからの生活費のために、白装束で寝かされた祖母を気にしつつ、銀行の通帳を家族全員で必死に探す状態になりました。悲しむどころじゃない。

今だとスマホのサブスクやSNSとかが、問題になるらしいです。がんならば、全部自分でどうにかしてから、満を持して死ねる確率がありますよね。

どうして今また
死に様を考えたのか

実は今日こうして死に様について、考えたり書いたりしているのかというと、昨日出たダンナの検査結果が悪かったからです。

いや、そんな生活をしてればそりゃ早く死ぬよ!とも思っていたし、寝ている時は基本的に、死んでたり、顔色に異変がないか、いつも見ています。そのくらい不健康な状態だけど、まぁ人の言うことに一切聞く耳を持たない。こっちの精神がやられるし、不健康度が上がるにつれて、普通の会話ができなくなったので、狭い部屋に住んでるけど、最近では「あ、今日一言も話してないや~」ってくらい話しません。つまらない結婚生活ですね。

それが昨日はいつもより話しました。私が~ではなくダンナが。

ダンナが言うには、先天的らしいホルモンの傾向で、寝たまま死ぬ確率が高くて、もう結構ヤバい数値が出ている…と言われたそうです。

私や子どもたちからすれば、全く驚くこともない内容で、私は「あなたの念願が叶うね」と伝えました。それだけうちのダンナの生活は、長年むちゃくちゃでしたから。これまで死ななかった方が不思議なくらい。

あぁ青空…。

ダンナは死んでサヨナラ~で済むけど、祖母の時と同様で、一緒に暮らしている残った人の方がかなり大変。家は賃貸、保険は死んだら入るものは入ってない。ダンナのために無理して家賃バリ高の地域に住んでる。お金持ちの家の子どもの貯金より、口座残高がない。そして私は無職…。

急死したら即引っ越しは間違いない。でもどの地域に住む?子どもは一緒か、一緒じゃないのか。

ダンナはまっ暗でぼんやりしたり、たまにうわごとのように何か呟いたりしているけど、生活が完全に左右される私には、とにかく切実な大問題、間違いなしです。子ども③はたぶん近いうちに、出ていくからいいとして、他の2人はどうするのか…。

一昨日の日曜日に、出かけるか聞いたところ、体調が悪くて出かけたいけど出かけられない…と、ダンナが言っていたから、私も本腰を入れて、いろいろ考えて動かなきゃならなそう。

最後に…。

ということで、今日からメルカリに物を出し始めました。物を減らさなきゃ、引っ越しが大変だし。

しかし、私は今度どこに引っ越すのかな。三鷹に戻るかどうかが大問題…って感じ。好きなような、そうでもないような三鷹。どうしたものやらね。

ちょうど外は暑いことだし、とにかく私はしばらく断捨離かな。去年の引っ越しでかなり捨てたんだけど、それでも箱数が多いと引越屋さんから言われたし。頑張って見極めよう。

下宿の女将さん、やりたいな。
1人暮らしは好きじゃないし。

東京三鷹生まれの三鷹育ち。自分の居場所を求めて富良野、京都、東京多摩地区を転々としたのち三鷹に戻り、以降ずっと三鷹に在住。2016年2月、本好きと、長く続いた居場所探しの経験を活かし、地元でゆるい感覚のまちライブラリーをスタート。ひっそり人好き。地域クリエイター。