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ジョルジュ・フランジュ「顔のない眼」は、比類なき怪奇メルヘンだ。

  この映画はいわゆる「ホラー映画」ではない。むしろ「怪奇映画」と呼びたい。その全編を支配する気味の悪さは、眼の穴だけの無表情なお面のインパクトによる。顔は物理的に人間のコミュニケーションの核であり、それが機能していないことがこれほどの不気味さを生むのだ。「能面のよう」であるが、能面ほども表情がない。

   物語は皮膚移植の権威ジェネシュ博士を襲った突然の災厄に始まる。娘が交通事故により、顔に大火傷を負ってしまったのだ。博士は、娘の失われた顔を取り戻そうと死に物狂いになる。自分の専門ではあるが、これ程の症例は無かった。焦る彼は、次第に医者としての、そして人間としてのモラルを踏み越えてしまう。それはもはや娘への愛情からではなく、権威と名声を失う恐怖からに他ならない。

  それにしても、クリスティーヌは実に美しい。移植した皮膚の出来をジェネシュが検分するシーンで、エディット・スコプの顔がじっくりとクローズアップされる。逆三角形の蟷螂のようなシルエットに、少し離れた大きい両目、そして肌理の細かい絹のような肌。顎を指で持ち上げられ、注視されている不安から、青い瞳を落ち着かずクルクル動かす。人間でないような美しさに息を飲むしかない。

  この儚い美に対してフランジュは容赦しない。表皮が免疫で腐敗し、壊死していく写真を淡々と並べて見せる。しかも学問的記録として。人間の顔の皮を剥いだら何が現れるか、我々は知っている。子供の頃、理科室にあった顔の筋肉図を、誰しもが「嫌な記憶」として持っているだろう。フロイトの言う、「無意識」に刷り込まれた「不気味な物」の一つである。

  この映画の冒頭、アリタ・ヴァッリが奇妙な死体を捨てに行く。男物のコートを着せ、帽子を深く被せて顔は隠しているが、よく見ると細い体駆と白い生足で女性とわかる。なぜ、男と偽装しなければならないのか。そこから我々はぐいぐい引き込まれていくが一体話がどこに帰結するのか、わからない。弦と鍵が絡まった不協和音風の音楽が不安を煽り、およそまともな結末にはならないことはわかる。

 その結末。アリタ・ヴァッリは大粒の涙を溢れさせて、ジェネシュ博士は是も非もなく裏切られて、それぞれ絶命し、クリスティ-ヌはやっと解放される。屋敷の奥の黒い森に、鳩を携えながら分け入っていく後ろ姿は、まさに「怪物誕生」である。そのドレスの目に染み入るような白さ・・・。フィルムノワールの出だしで始まった映画は、「怪奇メルヘン」に昇華して終わる。映画史に屹立する、先にも後にも類似のない傑作である。


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