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復元された記憶 セルゲイ・ロズニツァ「国葬」

  顔の映画だ。スターリンの国葬に集まってくる国民の顔、顔、顔。しかしよく見ると、恐るべきことにどれも一様に「抑圧された無表情」なのだ。弔意はむろん無く、悲しみはあるべくもない。「実物を見る興奮」すら見て取れず、あるとすれば微かな畏怖だけだ。
 そもそも、彼らは何故集まってきたのか。強制によるのか無意識の反応なのか。顔には何の意思も感じられない。「赤の広場」に集められた数百万の人々は、ポスターをみればわかるが、等しく皆前を向いている。横を向いたりしている者は、皆無なのだ。底知れぬ不気味さが漂う。スターリンの所業はかなり明らかになっているが、農民を奴隷として扱い、従わない者は処刑し、シベリヤ送りにした。無理な工業化を促進し、飢餓も放置した。そして密告を奨励し、ひたすら政敵の粛清に努めた。このような暗黒の時代に、国民はおそらく日々、疲弊と悲惨と恐怖に喘いでいたであろう。憎悪すらも忘れ、思考も停止した状態。あの沢山の顔はそのように見えた。
  この映画を見よ。その「栄光の」スターリン時代は、このような巨大な虚礼を持って終わったのだ。この空虚な厳粛を見よ。これを我々の目前に再現するため、ロズニツァはあらゆるアーカイブをつぶさに調べて見つけた葬儀の映像をつなぎ合わせ、一本の映画を作り上げた。バラバラな断片から、まるでそこで撮影したかのように映画が出来上がったのである。彼の執念に感嘆するが、歴史の怨念がそうさせたとも感じる。
それにしても、どれだけ沢山の映像を発掘し、厳選したことか。パースペクティブを丹念に合わせているため、パンした左と右の映像のカメラが別でも気づかないだろう。そしてあたかも全国規模で同時撮影したかのように見えるのは、「『スターリン逝去』の街頭放送」が全国同時だったからだ。そして国葬の最後に、葬送の号砲を鳴らすが、これも同時刻。モスクワから始まった空への射撃が、まるでリレーするように市へ町へ村へ伝わっていく。その空砲は、唯一この映画で、ある種の希望・明るさのようなものを感じる一瞬なのだ。
   この映画によって、「ドキュメンタリー」という形式の恐ろしさを再認識した。恐らく、作者の意図しない被写体の心理の深層や今まで見落とされた真実などが、はっきり立ち上がっていることであろう。ロシアの人々にとって、忌むべき記憶に絡む、どれだけ重い、衝撃的な映画であろうか。もちろん、我々にとっても恐るべき傑作である。

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