見出し画像

源氏物語ー融和抄ー玉鬘

 玉鬘は夕顔と頭の中将との娘ですが、母の夕顔とは、夕顔が光源氏に連れ出されたきり亡くなるという形で別れることとなり、その存在を父頭の中将が知ることもないまま、乳母の夫の赴任地である筑紫へ下ることになります。乳母の夫が亡くなった後は、肥前松浦で乳母やその息子達と暮らしていましたが、玉鬘が二十歳になると、乳母は意を決して玉鬘を連れ京へ出ていきます。
 願掛けに訪れた初瀬寺で、奇跡が起こります。夕顔の側に仕えていた右近という女房は、あの一件以来そのまま光源氏にお仕えしていたのですが、偶然にもその右近と初瀬寺で再会したのです。そして光源氏と引き合わせてもらい、その保護を受ける事ができるようになりました。
 ここでも観音様のご加護を際立たせています。

 初瀬寺と松浦の地との縁については、藤原定家が書いたと伝わる『松浦宮物語』においても、不思議な運命の再会を果たす地として描かれており、古代より何かしらの言い伝えがあったことを思わせます。神功皇后とも縁があり、半島や大陸へ向かう要地でもある為、様々なドラマが生まれた場所だといえます。

 その初瀬寺の辺りに宮を造ったのが雄略天皇です。
 そしてこの玉鬘という名が示すものは、『日本書紀』の雄略天皇の段に出てくる宝冠だと考えられます。
 安康天皇は雄略天皇の妃に、大草香皇子の妹の草香幡梭姫皇女を迎えたいと考え、大草香皇子に遣いを送ります。病にあった皇子は妹の行く末を案じていた為快くお受けし、玉鬘(宝冠)を天皇へ奉ります。
 ところが、使いの根の使主は、預かった玉の髪飾りの素晴らしさに目が眩み、大草香皇子はこの話を断ったと嘘をつき、宝冠を横取りしてしまいます。
 この事は後に雄略天皇の知るところとなり根の使主は罰を受けました。

 『源氏物語』において、玉鬘が髭黒の右大将と結ばれるに至った経緯は詳らかではないものの、玉鬘は入内の用意が進みつつあったという状況を考えると、敢えて詳しく触れない事でこのエピソードを彷彿とさせるようにしたとも考えられます。
 「日本紀の式部」と呼ばれていたことは事実のようですので、こういった所を取り上げてそう言われたのでしょう。

 雄略天皇の御代であれば髭黒の右大将はただでは済まなかったかもしれません。しかし、実の父である頭の中将の言葉は、宮中に上がれば気苦労も多いのでこの方が良い、というものでした。
 大和朝廷の安定期ならではの言葉と言えるのかもしれません。

 「夕顔」の段に秘められたテーマが名告りである事を述べました。古代、男女の間において、名告ること、名を聞くことはプロポーズを意味した時代がありました。
 万葉集の巻頭歌は、雄略天皇が美しい乙女に心惹かれ名を名告るシーンを歌ったものでした。

 『日本書紀』雄略天皇四年春二月、天皇は葛城山に狩りに行き、一事主神と会いました。一事主神は長身で、顔や姿が天皇とよく似ていました。天皇は相手は神だなと思いながら、どちらの公かと尋ねます。一事主神は自分は現人神(姿をあらわした神)だと言い、天皇に向かって、「まずあなたの名を名告りなさい、そうすれば自分も名告ろう」と答えます。天皇が「私は幼武尊である」と名告ると自分は一事主神である事を明かし、一緒に狩りを楽しんだとあります。
 この話は『古事記』では違うストーリーになっていて、「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と真っ先に名告ります。名告りという側面をクローズアップしてみると、『日本書紀』『古事記』の雄略天皇の段と『万葉集』には何か接点があるように思えます。

 雄略天皇は史部を置き重用されたと記されています。史部とは、文書等を司る書記官のようなものです。
 何事も自分の意のままにされることが多く、誤って人を殺めることもあり、人々は雄略天皇のことを大変恐れていました。
 ある狩りの日も、突然現れた猪を畏れて仕留めることができなかった舎人を斬ろうとしましたが、それを聞いた皇后の草香幡梭姫皇女は諌めお説教します。
 これに対して雄略天皇は、万歳と叫びます。他の人々は狩りで獣などを獲物とするが、自分は狩りをして良い言葉を獲物として帰るのだから楽しいなぁと。
 その出来事は本当にあったことか?とは思いつつ、一連の記述から、雄略天皇が言葉との関係が深いということを、殊更強調しているように見えます。

 さて草香幡梭姫皇女の言葉が素晴らしいと称えることで、皇女を神聖視しているわけですが、皇女の婚姻の証とされた宝冠を、夕顔の娘の名に使いモデルとしたのは何故でしょうか。
 
 当時、実際の宮中でも物語は好まれていて、特に女性達はよく読んでいました。『源氏物語』もそんな中で生まれたものです。
 玉鬘も物語を好む女性として描かれていますが、「物語の主人公達は皆運命的な人生だけど、私はどの主人公よりも数奇な運命だわ」といった事を話す場面があります。物語の中で物語を論じるという、面白い場面です。

 『源氏物語』の続編として中世に成立したと考えられる「雲隠六帖」があります。宇治十帖の後の登場人物を描くもので六帖あり、これと合わせて六十帖とされたこともあるようです。そのうちの一章「雲雀子」は、薫の子である雲雀子を主人公とします。あらすじを記載します。

雲雀子は亡き薫を偲び、嵯峨野を詣でました。その帰りにお共の者に空へ矢を射たせると雲雀が儚い鳴き声をたて飛んでいきました。その鳴き声を聞いて、昔雲雀を狩った日のことを懐かしみ、老いは皆に訪れるものだと人を慰めた事を思い出します。しかしそうはいっても、薫は今生きていても、未だ老いてはおらず美しいのだろうにと、また懐かしみ悲しむのでした。その夜、薫を思いながら眠りにつくと、夢に薫が出てきて、この世は仮の世だと聞いたのならば、仏道を求めるようにと言い残し去りました。

 歌川国芳は『源氏物語』のキーワードにかけて連想される説話などの一場面を描く連作画を作りました。「源氏雲拾遺」、他に「源氏雲浮世画合」があります。
 「源氏雲拾遺」に「雲雀子」がありますが、それにかけ合わされたものは中将姫説話です。

中将姫とその父右大臣藤原豊成 /   東京都立図書館所蔵

 中将姫説話についての詳述は割愛しますが、中将姫についてこの絵に関わる部分を簡単に説明します。

 時は奈良時代、右大臣藤原豊成と妻紫の前の間には子が無く、夫妻は初瀬寺へ子授けの祈願に行きます。すると観音が「あなた方夫妻には子となる縁の者がいないが、観音の化身を授けよう」と夢に出て、子を授かることができました。しかし、母は姫が幼いうちに亡くなります。豊成公には後妻がきて、姫は継子いじめに遭い、継母は姫を雲雀山で殺すように家来に命じます。しかし家来は姫を殺すことが出来ず、雲雀山で匿います。後に、付近に狩りにやってきた父豊成と再会し京へ戻ることができましたが、実母や自分の為に命を落とした者たちを弔う為に生きたいと願い、当麻寺で出家しました。

 「雲雀子」で雲雀山を連想したものと思われます。その雲雀山で父との再会を果たしたので、中将姫と豊成公とが描かれています。
 とはいえ、薫や雲雀子と中将姫説話とは、雲雀以外にはあまりにも接点がありません。しいて言うなら、雲雀子と豊成公が狩りをすることです。
 ここに『源氏物語』との、もうひとつの接点が隠されています。

 中将姫は初瀬寺の観音様が結んだ縁で豊成公の娘に生まれました。豊成公と姫の再会には初瀬寺の観音様のご加護があったと考えるのは至って自然です。なにより、姫は観音の化身といいます。
 一方、玉鬘は乳母と一緒に初瀬寺へ詣でた際に、光源氏に仕えていた右近に再会できたのです。それがきっかけとなり、光源氏を通して実父の頭の中将と会うことが叶いました。
 二人の姫は、初瀬寺の観音様の元、実の父に会うことができたのです。

 初瀬寺は縁結びのご利益が高いと、古くから信仰を集めた寺院です。人と人との縁結びはもちろん、ご本尊の十一面観音様と結縁する場でもあります。
 また古来より、多くの歌人が参詣したことでも知られています。
 雄略天皇は大泊瀬幼武天皇ともいい、皇居の泊瀬朝倉宮跡は、初瀬寺の近くです。
 夕顔の遺児に、雄略天皇とも縁の深い「玉鬘」という名をつけ、物語り好きで数奇な運命の女の子に、初瀬寺に参詣させて開運させるというストーリーは、こういった歴史的な事実背景を踏まえたうえで考えられたものであったことは否めません。
 その上で、中将姫説話の成立が先なのか、それとも『源氏物語』のストーリーを模倣して付け加えられた部分があるものなのか、今後の研究に期待するところです。

 次に「源氏雲浮世画合」を見てみます。

東京都立図書館所蔵

 こちらも、『源氏物語』と古来から伝わる「故事」や「浮世話」を結びつけて描かれた連作のうちのひとつです。

 これについての文献を、いまだに見つけられず、もしかしたら定説もないのかもしれません。
 一番に目につくのが、大きなタコではありますが、背景には龍宮城とおぼしき館が描かれています。
 そして海人は手に、剣と玉を持っています。龍宮から玉を奪った様子と見られます。
 玉を奪うというと、玉鬘を横取りされた逸話が思い浮かびはしますが、この絵はもうひとつそれにそぐわない気がします。

 むしろ、藤原不比等と房前父子の話のほうがしっくりきます。龍宮に奪われた宝珠を海人が取り返す話です。
 詳しくは不比等の記事をご覧ください。

 長崎の五島では、空にあげる凧の事をハタと呼ぶのですが、国芳はタコを通してハタを思わせ、草香幡梭姫皇女の幡まで繋げようとしたのか、断言はできないものの、玉鬘にこの話を関連付けるのに、夕顔が海人の子だと言ったから海人を描いただけでなく、幡も加えることでより確かなものにしようとしたのかもしれません。

 歌川国芳は、二つの浮世絵を通して、玉鬘が物語や説話等の読み物を好んだことも表現しようとしたのでしょう。
 そして、紫式部と歌川国芳は共に、そもそも「玉鬘」が人ではない特別な物、という大前提を踏まえた上で創作しているのが分かります。

      *

 ここから少し番外編のお話になります。
 宝冠玉鬘を横取りした根の使主は、雄略天皇に処刑されました。そしてその子孫は、他の氏族の元に仕える処遇を受けます。
 聖徳太子が生まれた後、物部と蘇我の争いと言われる丁未の乱の際、この根の使主の後裔が蘇我側に加わり取り立てられたことが記されています。
 聖徳太子の政策の中に、従来の氏族世襲よりも、実力や能力を重視したことがあります。これが冠位十二階となります。
 繰り返される歴史の荒波の中で、憂き目に遭っていたところに、光が射した時代でもありました。
 また憲法十七条をみてみます。

十七にいう。物事は独断で行ってはならない。必ず衆と論じ合うようにせよ。些細なことは必ずしも皆にはからなくてもよいが、大事な事を議する場合には、誤りがあってはならない。多くの人々と相談し合えば、道理にかなったことを知り得る。

『日本書紀・下』 宇治谷孟 講談社学術文庫

 独断で物事を決めた雄略天皇の記述と、相対しているようなニュアンスを感じます。聖徳太子の意向であったでしょうが、わざわざ根の使主について詳しく書き残したことを考えると、編纂者の意図というか見解が強く介入しているようにも思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?