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現在の社会の二極化は知識で解決できない

私達が今直面している、日本社会の二極化は、大きな問題だと思います。そして、一部の人は

 「上級になるためには良い大学に行けばよい」
 (その努力をしないから今のままだ!)

と言う論法を振り回しています。この意見には色々な面から反論があります。多くの人が指摘していますが

 「大学進学の機会は裕福な家庭の子供ほど大きい」

と言う状況は

 格差の再生産->固定化

につながっています。言い換えると

 金持ち階層が既得権を維持する手段
         として
 建前としての学問の自由

が使われているのです。この問題に関しては、マイケル・サンデルなどが取り上げています。

さて、今回の議論は

 知識があっても仕事ができるとは限らない

と言う問題です。この話は、1970年代に既に、アメリカのハーバード大学のマクレランドが

 外交官に同じ成績でも成果に差がある

と言う疑問から『コンピテンシー』という概念がでています。『コンピテンシー』は『行動特性』という訳が示すように

 組織の目的に合う行動

する力ですが、学問的な知識は、その一部です。どちらかというと、やる気と対人能力などが重視されています。

さて、物作りの立場では、この問題にも、う一つ別の解釈があります。それは

  学校の教科書通りでは物が動かない

と言う現象です。昭和の時代なら多くは

  現場の職人の力

で解決していました。例えば、金属などを加工する場合でも、教科書通りの設計図を書いても、現場では気温の変化による金属の伸び縮みなど、色々な様相を加味する必要がありました。こうした現場での適応力に依存した物作りです。こうした、色々な人の力で仕事が進む、このことを理解せずに

  大学でたから仕事ができる

というのは、間違いです。

さて、先ほど書いた『昭和の時代』の話は、令和になれば変わったのでしょうか?確かに、金属加工の例で言えば

  IT技術により環境変化要素も加味した加工

が自動化している場合もあります。しかしながら、製品に対する要求も、また高度化しています。特に、使い方などの『人間的要素』や、持続可能性など『社会的な考慮』を、要求された物作りになります。

このように考えると

  単に大学に行った

だけで

 仕事ができる

と言う発想は甘いのではと思います。 

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