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法華経の実践

止観の実践

私は、ある寺の本堂で、住職の許しを得て一人座っていました。まず法華経の方便品、寿量品と分別功徳品を唱えて、呼吸を落ち着かせて目を閉じます。

すると、虚空の世界でお釈迦様が、皆に法を説いている姿が観えてきました。これは、分別功徳品の、

「深く信じ理解すれば、仏が霊山で説法されている姿を観る。」

という教えそのものと実感しました。

そこで、説法を聞いていた舎利弗尊者がお釈迦様に問いかけました。

「世尊よ、今この世界を遠い未来から、見ている人がいます。」

お釈迦様が答えます。

「舎利弗よ、今から三千年ほどの後の世界の住民が、私の教える姿を観ようとしている。」

舎利弗尊者はさらに続けました。

「世尊よ、彼らの世界はどのようなものでしょうか?」

するとお釈迦様は微笑みながら、次のように言われました。

「舎利弗よ、その前にもう一つ見せておきたい世界がある。今から千数百年ほど後の、隋という国で私の教えが、天台山で智顗によって説かれている。」

私にも天台大師が摩訶止観を説いている姿が観えました。舎利弗尊者がこれを観て少し感動したようです。

「世尊よ、彼らが手に持っているのは、私たちのことを書いたものですね。」

舎利弗尊者たちの世界には、お経などなかったと私は改めて知りました。お釈迦様は微笑みながら続けます。

「その通りだ、この時代では私の教えを経文という形で書き表している。僧侶はそれを自分の手で書き写している。そして、書き物だけでは伝わらないことがあるので、智顗は、止観業を説いている。」

その時に、天台大師智顗が霊鷲山に出現し、お釈迦様の前で合掌しました。

「私も釈迦牟尼世尊の弟子の末席に加えていただきたく、参上いたしました。」

この時、お釈迦様はとてもうれしそうでした。

「善いかな、智顗よ。よく大乗の教えを実践している。」

天台大師は少し恐縮したようです。

「私たちの時代では、お釈迦様の直接の教えを受けることはできません。紙で書いた経文を唱えて、その真意を知ろうとしても、確信を持つことが難しかったのです。そのために止観業を皆に説き、このような霊鷲山を観ることができるようにして、法界に入れるようにしました。」

これを聞いた舎利弗尊者は、天台大師たちの世界について感想を述べました。

「彼らは『お経』という形で整理された教えを受けています。しかしそれを生かすための修行は厳しくなっています。」

お釈迦様は頷かれて、皆の前に現在の世界を展開しながら、話されました。

「舎利弗よ、智顗よ、よく見なさい。これが今から三千年後の世界です。ここでは、印刷術というものがあり、誰でも簡単に『本』という形で経典やその解説書を手に入れることができるのです。さらに、テレビやインターネットとスマホなどという道具があり、仏の姿や他の世界の生活も見聞きすることができるのです。また、彼らは学校で、色々な知識を学んでいます。太陽や星の動きを『物理学』という学問で予測することもできます。また多くの病気は、医学という学問の力で治すことができるようになっています。」

舎利弗尊者はこれを見て讃嘆しました。

「世尊よ、彼らは何と満ち足りた生活なのでしょう。しかも他人のことも知ることができるなら、思いやりにも満ちているでしょう。」

天台大師智顗は少し疑問を持ちました。

「私の時代には、お経の本はありました。しかし言葉だけで唱える人が多くいました。そのような人の為に、私は止観業を説いたのです。また、彼らはテレビというもので、動く画像や音を使って、自分の体験以外の物も見聞きできますね。しかしこれは、全て与えられるものです。自分で『観る』のではありません。」

お釈迦様はこれを褒めて

「智顗よ、汝はよくやった。汝のしたことは、千五百年の後にも伝わっている。舎利弗よ、よく見よ。このような満ち足りた時代でも、人々の幸せは別なのだ。自分の力で『観る』ことが大事だが、できるものは少ない。」

と指摘されました。そして、舎利弗と智顗の前に現在の学校教育の一幕を見せます。

それを見た舎利弗尊者は思わず言ってしまいました。

「世尊よ、彼らは自分たちで言う、『科学的な知識』しか認めないようですね。」

さらに、お釈迦様は、ある家庭で仏壇に向かって、お勤めをしている姿を見せました。

また天台大師智顗が少しあきれたように言いました。

「お経の言葉を唱えていますが、本当にわかっているのでしょうか?寿量品が本当に分かれば、私達が今いる世界を感じるはずです。しかし彼らは口先だけで唱えているようです。」

これに対してお釈迦様は満足げに頷かれました。

「その通りだ。彼らは、便利な世界にいる。その結果、自分の力で観ることができないのだ。汝が説いた止観の行は、仏の姿を見ることが難しいときに、全力で観ようとする。しかし、彼らは写真と言って、仏の姿かたちを見ることは簡単にできる。簡単だから、そこに魂がこもっていないこともある。また,『科学的』な因果関係を知るが、それから外れたものは受け付けようとしない。」

舎利弗尊者はこれを聞いて嘆いて言いました。

「彼らは修行ということを忘れています。正しく末法の時代です。便利な世の中かもしれませんが、不幸なように見えます。」

お釈迦様は微笑んで、私の方に目を向けられました。

「舎利弗よ、そう嘆くではない。智顗がまいた種が、今ここに開いている。」

その時、私の魂の前に一人の菩薩が出現しました。上行菩薩です。そのお力で私は、人の姿を再現しました。この私に上行菩薩が付き添って、お釈迦様の前に連れて行って下さりました。私はお釈迦様の前で何も言えず、ただ合掌していました。暖かい力が体中を包んでいるのを感じました。舎利弗尊者が声をかけてくださりました。

「世尊よ、彼は既に、仏の世界を知っているのでしょうか?」

また、天台大師智顗も釈尊に質問しました。

「世尊よ、彼は止観の修行を行っているように見えます。」

お釈迦様はおっしゃりました。

「舎利弗よ、この者は智顗の説いた止観を、見事に自分のものとしている。しかも、法華経の教えを素直に信じたから、ここにいる。」

私は、ただ喜びの気持ちしか感じることはできませんでした。法華経にある

「お経を信じる喜びと六根清浄」

とはこのようなものかと、ただその世界に浸っていました。

その時、お釈迦様の声が聞こえてきました。

「さあ帰りなさい。私は何時も貴方たちを見ている。安心しなさい。」

天台大師智顗の現代訪問

その時、天台大師が、お釈迦様に一つのお願いをしました。

「世尊よ、私はこの者たちの世界をもう少し見てみたいのです。」

お釈迦様は快諾しました。

「智顗よ、よく観てきなさい。上行よ、彼を送ってあげなさい。」

そして私たちは、元の寺の本堂にもどり、上行菩薩と天台大師が、私の前にいらっしゃった。天台大師がおっしゃります。

「何と見事な仏像でしょう。お釈迦様、多宝如来様、そして四大菩薩様など皆さまの像がある。四天王は四隅に、普賢菩薩様は像に乗った姿で実現している。この姿を観ることができる人は幸せですね。」

上行菩薩が大曼陀羅の方を示された。天台大師が続けておっしゃった。

「これは、霊山の虚空でお釈迦様が説法している姿ですね。よくできていますね。絵を描かなくても、これで十分、霊山の世界が解ります。正しく深信解の世界です。」

天台大師はここで一つの疑問を出されました。

「ここに座ってらっしゃるのはどなたですか?」

すると、上行菩薩が少し困ったような顔をされて、私の方を振り向かれました。そこで私が答えます。

「天台大師の数百年後に、法華経を解かれた日蓮聖人です。」

すると天台大師が一つの疑問を示されました。

「日蓮という文字は曼陀羅の中にもありましたね。しかし、お釈迦様の説法を聞く向きではないですか?」

ここで上行菩薩が少し微笑みながら、説明されました。

「日蓮聖人は私の化身です。人間に親しみのある姿で、お釈迦様の教えを説いています。本来の霊鷲山での場所は、持国天と毘沙門天の間ですが、霊山で仏様の姿を観るように、この位置にいるのです。」

こうして上行菩薩が、日蓮聖人の像と一体になるのが見えました。天台大師は続けます。

「解りました。このように形のある教えに触れるあなた方は幸せですね。」

この言葉を残して、お二方は帰られました。

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