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無量義経の大切さ

法華経には、開経として無量義経があります。
法華三部経 - Wikipedia

このお経は短いけれども、法華経の重要な部分が、簡潔に説かれています。つまり

無量に多い法門は一法から生ず
その一法は無相すなわち『実相』

です。このため

性・相・空・寂

を見極めます。つまり

  • 性:物事の本性

  • 相:外見に現れる姿
      の両者は

  • 空:全ての因縁はで生じる
      悪の実体・善の実体などはない
      虚空から生じるので本質的に平等

  • 寂:全てが発展しながら大きく調和している

と言う教えです。

これをまとめると

無相:今見る姿形は本来のもではない
実相:差別のない本当のもの

となります。

さて、ここで『無量』に戻ります。このお経では

今までお釈迦様が説いた多くの教え

これを『無量』としています。つまり

聴く人のレベルに合わせた多様の教え
が無数ににある状態

を『無量』と言い、これが唯一の法である

諸法実相からの応用展開(方便)

と説いています。

さて、この教えを理解すると

法華経の教えの要点

が入っていると解るでしょう。これを詳しくすると、「法華経の方便品第二」の教えになります。

最後に

無量義経は偽経

と言う議論について、私の意見を言います。ここで

偽経とはインドの原典がなく
中国や日本で作られたお経

のことです。現在は、無量義経のサンスクリット版が、あるかないかという議論から

どうも見当たらないから偽経

と言う説があります。

しかし、私は別の観点から

無量義経は中国生まれ

と考えています。理由は、法華経の方便品第二の『十如是』の教えです。実は、この部分はサンスクリットの原文では、五何法となっており、因縁果報と本末究竟は、鳩摩羅什の翻訳での付加とされています。
十如是 - Wikipedia
これを考えると

無量義経は中国で生まれた

と考えるのが妥当だと思います。

ただし、私は

(梵文原典なしの)偽経は悪くない

と信じています。理由は、法華経の如来寿量品第十六にある

仏は今も霊鷲山で法を説く

と言う教えを信じているからです。従って

仏は末法の今でも教えを説くので
それを感じた人がお経に記す

のはあると思います。

現在の状況を見て、しかるべき形で法を説く、こうした進化がある教えだと思います。逆の言い方をすれば

お釈迦様の教えだけが正しい
なら
今の我らは退化している

となります。色々な宗教に、原理主義の信者がいます。彼らは

進化論を信じない
我々は退化していると思う

傾向があるのです。私はこの考えには反対です。

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