茂木健一郎さんのお笑い観はあるひとつの真実ではあるかもね。でも、果たして・・・。

いやぁ、茂木さん、日本のお笑い界への喧嘩の売り方が派手ですね~。こりゃあ芸人さんたちみんな怒るでしょ。怒ってあたりまえですよ。ただし、そんな茂木さんの喧嘩上等の意見のなかにも(たぶん)わずかの正論は含まれていて。では、順を追って。



茂木さんはこんな意見を持っておられます。ほんらい知性の最高の形態はコメディなんだ。そして笑いは権力批判であるべきなんだ。しかし、日本の笑いはまったくそうなっていない。最高の知性どころか、小学5年生レヴェルだ。そういう笑い「も」あっていい。しかし日本の笑いはそういうのばかりじゃないか。情けない。日本のコメディアンは全員落第。国家的危機だ。日本の笑いは、人生の大事なことを自分で決めない人の笑いに過ぎない、と憂国しておられます。ちなみに茂木さんは考えておられる最高の笑いは、(いかにもインテリ好みの)ダグラス・アダムスの『銀河系ヒッチハイクガイド』らしい。



さて、ぼくはおもう、茂木さんの批判は、名指しされてはいないものの、島田紳助さんの早すぎる晩年『クイズ!ヘキサゴン』~『ヘキザゴンII』(2002~2011年 フジテレビ)時代に由来する、日本型反知性主義讃美への批判かしらん。そしてそんな忌々しい反知性主義者・島田紳助さんに連なるかたちで松本人志~ダウンタウンそのほか日本のテレビ界の笑いがすべて切り捨てられているようにう見える。


では、どうして日本の反知性主義な感性が育ったでしょう? それは一定数の生徒が、ガッコーが押しつけてくる勉強のカリキュラムがただの虚構であり、人生を生きる上でなんの役にも立たない、とガッコーを見捨てはじめたからでしょう。かれら彼女らはおもう、学校が押しつけてくるくっそつまらないお勉強よりも、たとえば笑いのスキルを身に着けた方が人生よっぽどたのしくおいしく生きられる可能性がある。もちろんこれは島田紳助さん、松本人志さんをはじめ、テレビが国民に教育したことです。その教育の甲斐あって、いまや大卒芸人さえめずらしくない時代になりました。たしかに茂木さんの憂国な心情もわからないではありません。はやいはなしが茂木さんのおっしゃる主張は、知の巨人たるおれを高級な笑いで笑わせてみろ、というわけでですよ。大卒の癖して高卒と同じ作法で笑いをとりやがって??? そんな茂木さんのお怒りはわからないでもありません。なるほど、ときにはそんな高級な笑いもたのしんでみたい、そのくらいには、ぼくもまたおもいはするけれど。



しかし、他方、ぼくはこうもおもう、もともと笑いと権力性の関係は両義的なもの。王は道化を雇い、道化は王に雇われながら王の批判を芸にする、そんな淫靡な関係はたとえば人類学者・山口昌夫さんが何度となく指摘したことですよ。また、身近なところでオヤジギャグなる言葉がなぜ軽蔑のニュアンスを含んでいるかと言えば、上司がサブい芸をやって、部下はそれがくっそおもしろくもないのに嫌々笑わなければいけない、そんなパワハラ性を嫌悪するがゆえですよ。つまり、茂木さんが主張する〈ほんらい笑いは反権力的であるものだ〉という主張には無理がある。むしろ笑いと権力はもっと淫靡で複雑によじれている。



松本人志さんの「偉業」は、日本人の価値観を最高の笑いを作り出せる者がいちばん偉く、次に最高の笑いで笑える人が偉い、とおもわせることに成功したからではあって。もちろんこの価値観には反論があってあたりまえではあって。知識人にとっては許しがたい謬見ではあるでしょう。しかし、いくらそれが正当な批判であるにせよ、前述のとおり茂木さんのお笑い観は、あくまでも一面の真実に過ぎない。



そもそも知識人がいままず最初に考えるべきことは、できる限り学校教育を中高生たちに見捨てられないように改革することでしょう。また、茂木さんはクオリアを提唱する脳科学者なのだから、(言葉による笑いばかりではなく)前言語的な笑いをもまた視野にして欲しいともおもう。しかしながら他方で、茂木さんがいかに日本の(このままいけばどこまでいくか計り知れない)反知性主義に心底絶望しているか、それだけはぼくにも痛切に伝わってきます。茂木さんはとても正直な人だ。もしも茂木さんがたとえ嘘でも、「知の巨人(=茂木さん)」もまた巨人症のようなもの、というような視点をお持ちになったならば、それこそ映画『大日本人』のような笑いの地平が拓かれるのに。ざんねんでなりません。


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