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国立西洋美術館はコルビュジエを愛していない。


もう開催は終わってしまったけれど『ピカソとその時代』を見た。Picasso を見るのはたのしかった。ピカソは多視点的に肖像画を描くゆえいっけん彼女たちは化け物じみて見えるものの、しかしじっと見ているとひとりひとり愛らしく人間くさく、しかもピカソの彼女たちひとりひとりに対する好意の濃淡まで感じられて、ピカソのわがままが手にとるように感じられて、愉快な気持ちになる。


他方、この展覧会には Paul Kleeもたくさん展示されていたのだけれど、不思議なことに絵がまったくなんにも囁きかけてこない。どうしてだろう?ぼくは「クレーってどうおもう?」といつもの女友達に訊ねた。
すると彼女はぼくの困惑を察して答えた、「あ、展示室のこのコーナーの壁が青いからですよ。クレーは白い壁にかけて欲しいですね。」
なーるほど、と、ぼくは腑に落ちた。国立西洋美術館はどうしてこんなことをするかなぁ。まったく意味がわからない。コルビュジエの意図に、展示室の一部に青い壁なんてものがあるはずない。


実は、国立西洋美術館はコルビュジエの手掛けた建築のなかで例外的に、赤や青や黄の色がなく、コンクリのグレイだけの建築である。ぼくにとってむかしからそれは不思議なことだった。


コルビュジエが色彩を使うときは、建築に華やかなアクセントを添えるのみならず、たとえばそれが窓辺の壁やあるいは窓枠に塗る色彩の場合は、光が色面に当たることで影にも淡く色がつく、そのデリケートな効果をも狙う。逆に言えば、自然光の入らない展示室の内部の壁を青く塗るなどという無意味なことなどコルビュジエが意図するわけがない。



しかも国立西洋美術館にはさらに大きな罪があって。コルビュジエが意図した〈順路のドラマ〉を破壊していること。コルビュジエは鑑賞者を一階から入れ、一階の一部の展示を見せ、次に二階へ上げ、二階の展示を見せてから、最後に一階へ下ろして天窓から自然光が降り注ぐ荘厳な空間で鑑賞者を感動させる、そんな筋書があった。国立西洋美術館もたしか二十世紀末まではその順路を守って展覧会を開催していたものだ。


ところがいつ頃からか西洋国立美術館はこの順路を壊してしまった。ぼくはおもった、わかってないなぁ、西洋美術館は。なるほど、利用者の建築家に対する無理解はよくある話題ではあるけれど、しかし天下の国立西洋美術館がこれでは情けなさすぎる。


次に、コルビュジエは建築家であるのみならず画家であり、彫刻家であり、建築思想家でもあった。西洋美術館はモネ(の、しかも積藁、ポプラ並木、ルーアンの大聖堂~水連の時期)ばかり贔屓しないで、コルビュジエの全体像がわかるコーナーも作ればいいのに。


インド人はもっともっとコルビュジエを愛してますよ。嘘だとおもったら、チャンディーガルへ行ってみてください。


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http://tabelog.com/rvwr/000436613/

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