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「部屋に虫が出たの、気持ち悪いやつ」
 急な電話だった。
「なんだ?ゴキブリか?ムカデとかカマドウマ?」
「なんか違うやつ、帰れなくなっちゃった」
 彼女の部屋に現れたと言う虫を想像するが、それは俺の知らない虫かも知れない。
「大丈夫か?殺虫剤とか無いの」
「パニックになっちゃったからわかんない」
「そうか」
 俺は電話を肩と耳に挟みながら目の前の仕事を淡々と進めていた。
「冷たくない?なんか」
「そうは言っても、助けてやるには遠すぎるだろ」
「京都に来るくらい訳ないでしょ」
「大阪にいたら近いんだろうけど、こっちは東京だぞ」
「ニューヨークから来るよりマシでしょ」
「俺がいたのはボストンの田舎だ、そんな都会じゃねえ」
「そうだけど」
「うちに来る分には構わないぞ」
「財布も置いて出てきちゃった」
「そりゃあ残念だ。まぁ、もういいんじゃないか?そろそろ虫もどっか行ったろ」
「……そうだといいけど」
 俺はキーボードから手を放して電話を手に持ち替えた。
「大丈夫だよ」
「……うん」
 電話を左手に持ち替えて、右手でマウスを操作する。ファイル、印刷と選んで書類をプリントアウトする。白く大きな箱が唸り声を上げて紙を吐き出した。印刷された紙には黒い筋が伸びていて俺は小さく舌打ちをした。
「なに?怒ってる?」
「いや、こっちのことだ」
「仕事中?」
「まぁな」
 エアコンの風に煽られて、インクの黒い筋がついた紙はひらひらと暴れていた。

******

 あの頃はまだ俺たちの可能性が無限にあった。俺たちは何をしても良かった。就職をしても良かったし、自衛隊に入っても良かった。組み合わせも選択肢も恒河沙、阿僧祇、不可思議に存在した。少なくともそう思えたし、それを信じる事ができた。
 それでも有用なのはその3割ほど、その有用な中でも使いものになるのはさらに3割ほど、そして現実的な話をすれば両手で数えて足りる程度の可能性が遺されていると言うのが実際のところだ。
 挑戦する前からほとんどの結果は見えている。俺たちの人生はエンドロールから始まっている。だが悲観的な話ではない。それが当たり前なのだから。
「なぁ、もしも俺たちがお互いに35歳をこえても独りだったらさ、結婚しようぜ」
 俺は六回目の射精を口の中に出し終えてから言った。
「抱いてくれない人とは厭」
 彼女はティッシュを咥えたまま吐き出すように言った。
「そりゃあそうだな」
 笑いながら煙草に火をつけて煙を吐き出す。
 女性器は嫌いだ。虫の腹の様な色も形も嫌いだ。
「それに、一緒にもいてくれないでしょ」
 物理的な距離だけはどうしようもない。
 抱きしめようが口づけようが、仮に俺が彼女を押し倒して芋虫を押し込もうが距離は埋まらない。いや、その精神的な距離を埋める為の物理的な距離がどうしようもないと言う話をしている。そうだ。つまり俺は彼女がその精神的な距離を埋めるのに必要な物理的な距離をどうしようもできずにいる。
 だらしなく下がった芋虫を見ていたが、そいつが成虫になって空を飛ぶ事はないだろう
 それは彼女が飲み下した俺の可能性の数だけあった未来かも知れない。。

******

 階段に座っていた。
 俺たちは階段に座っていた。一軒家の中にある、なんの変哲も無い階段だった。
 リビングから二階に上がる階段は三段ほどで右に曲がり、上に伸びていた。
 俺は煙草を吸いたいと思っていた。
 彼女は何かを喋っていたが俺には聞こえていなかった。
 俺はフローリングの床を這う害虫を見た。長い触角が動いていた。節足に生えた短い棘のようなものまで見えた。彼女もほぼ同時にそれを見たのか喋るのを止めた。
 俺は立ち上がってカーペットの下に潜り込んだそれを上から踏んだ。
何度も踏んだ。生きているのか死んでいるのか、害虫はカーペットのどの辺からも出てくる事は無かった。
 俺は彼女を振り向いた。彼女は静かに笑っていた。
 俺も笑った。煙草が吸いたいなと言うと彼女はライターを点けた。

******

 歩道橋を降りている最中に虫を踏んだ。
 別に意図的に踏んだ訳では無いが、足を下ろす直前にそこに虫が存在る事には気づいていた。瞬時に足を置く位置を変えればその虫を踏まずに済んだかも知れない。そうしなかったのは何故か分からない。たかが虫だと思ったのかも知れない。
 地獄と言うものが仮に存在して、そこで閻魔大王なる存在が俺を裁く時に「お前は虫がそこにいるのを分かっていて足をどけなかったな。これは故意に殺すより悪い。怠惰だからだ」と唸るのを想像した。
 俺は虫けらのように処分されるのだろう。その時に初めて虫の気持ちが理解できる。

******

 彼女の肌に止まった虫を潰すと血が出た。
 俺は彼女の血を舐めた事が無い。俺がした事の無い行為をその虫は平然と行った。俺はその事に腹を立てて、潰れた虫の下に広がった血を舐めた。鉄の味がした。
「なに、どうしたの?」
 彼女はくすぐったそうに笑った。その笑顔は何度か見た事がある。
 虫は彼女の笑顔を認識できないだろう。俺は少し満足した。

******

 起きた時に虫けらに変身していたら俺には考える脳味噌すらないだろう。

******

 テトラポットの上に立つ恋人を見ていた。
 フナムシが這い回っている。
 彼女がバランスを崩してテトラポットの上から落ちたらそこから出てくる事は難しいだろう。彼女は出られずに溺れ死ぬ。そこに立つと言う事は消極的な入水自殺の一種なのだろうか?
 空は青くどこまでも広がっている。水平線のあたりで曖昧に境界が消えている。黒塗りの水面に鱗雲が並んでいる。穏やかに波が翻る。いや、それは空で翻っているのは雲かも知れない。俺が眺めているのは海で足元に広がっているのは空かも知れない。
 だとすればフナムシに驚いて彼女がテトラポットの隙間から落ちていくのは空であり、彼女は溺死をする訳では無い。どうやって死ぬのだろうか。
 俺は彼女の足元で動かないフナムシを見ていた。

******

「ねぇ、いま平気?」
「あぁ」
「あのね、わたし浮気されちゃった」
「そうか」
「うん。なんかね、私が紅茶を飲む時にスプーンで音を立てるのが厭なんだって」
「そうか」
「うん。だからお別れしたの」
「そうか」
「うん」
「大変だったな」
「うん」
「初めてのデートの時は鯛を食わせてもらったんだっけ」
「覚えてるの?言ったんだっけ、それ」
「あぁ」
「そっか、わたし、言ったんだっけ、それ」
「あぁ」
「好きだったのにな」
「そうか」
「うん」
「ひとりか」
「うん」
「誰かいねぇのか」
「誰か?」
「あぁ、誰か」
「いるよ」
「そうか」
「うん。後輩でね、私の事が好きなんだって」
「そうか」
「記憶力がよくて色々覚えててくれるの」
「そうか」
「そこでいいかな、もう」
「その言い方は失礼なんじゃねぇかな」
「……そっか」
「あぁ、俺はそう思うよ」
 俺は煙草を空き缶に押し込むと空いた右手で羽虫を追い払った。
 西陽は秋の色をしていた。

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