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Re: 【小説】ハイウェイスター(仮)

 帰れない夜がある。
 群青色の塊になった空が広がっている。星は見えない。代わりにテールランプが瞬くのを、おれは単車から見ている。
 アクセルを開き続けていると赤い警告灯が点いた。
 ひとつ先の交差点で信号が黄色く変わる。 
 おれはさらにアクセルを開く。
 スピードが上がる。エンジンが低い声で絶叫する。
 信号が赤くなったと同時に交差点を突っ切る。
 そこで少しアクセルを緩める。警告灯が消える。唸るような絶叫が少し収まる。
 その繰り返しだ。

 次の交差点で赤い信号に服従する車列に追いつく。
 車と車の間に細い車体を捻じ込む。
 クラッチを切ってギアペダルを蹴り上げる。アクセルを開く。速度が上がり警告灯が点く。エンジンが叫ぶ。狂えない夜の月光。サイドミラーに写る現在。
 白煙がアスファルトを撫でて群青色をした塊の中に消えていく。


「無茶な運転をするね」
 隣に並んだ単車から声が聞こえた。
 ひとの事は言えないが、それは古いバイクだった。
 前時代的な2ストロークのバイク。おれのそれと同じ様にマフラーから白煙を吐き出しているのが見えた。
 時代錯誤そのものに跨っているヘルメットの後ろからは、長く伸びた黒い髪が群青色々の風を引き裂いている。
 踊るようにはためくスカジャンの下は肋骨が見えるほどに張り付いた白いシャツで、その胸部は膨らんでいた。

 おれはアクセルを開いてそれを返事とした。
 だが隣の単車もすぐに追いついてくる。
 冗談じゃあない。おれはひとりで走りたくて夜の道を走っているんだ。
 警告灯の赤い光が濃くなったように錯覚する。
 ボックスに差し込んだキーホルダーが震えている。フルフェイスの隙間で刻まれた風が細く高い鳴き声をあげる。

 その隙間から、また声が聞こえた。
「さっき見てたでしょ」
 旧式なバイクが並びかける。
 このままヘアピンカーブに突っ込めばどちらかが不運と踊ってしまう。
 おれは諦めてアクセルを緩めた。
 警告灯が消える。途端に隣を並んで走ってたバイクは群青色の塊に消えた。


 そう、消えたのだ。
 おれはあっけにとられてエンストを起こた。追いついた後続の車にクラクションを鳴らされる。
 慌てて端に寄せてペダルを踏んで混合を作りエンジンを始動させたが、いくら走ってもその先にさっきの旧いバイクも長い髪の女もいなかった。

 その夜から何日か、おれは何度か同じ道同じ時間を注意深く走った。
 別にその女や女が乗っていた旧いバイクに惚れた訳じゃない。
 いや、バイクは欲しかった。
 乗ってみたいバイクのひとつだった。
 今さらレンタルバイク屋にそんな古いものがある訳でもなく高嶺の華だ。
 あのバイクは見たい。
 どこのマフラーを付けているのか、どこをいじっているのか。あの時は綺麗に乗っているように見えたが、もしかしたら細かくいじっているのかも知れない。
 女は、そのついでだ。
 
 とにかくおれは同じ道を同じ時間に走って探した。
 だが見つからなかった。
 たまたまその時間にそこにいたのか?偶然かも知れない。
 諦めと言う文字が頭蓋の裏側で大写しになっていく。走れば走るほどその文字が大きくなっていく。
 厭な気持になっておれはアクセルを緩めた。同時にクラッチを切る。ペダルを蹴り上げる。同時にアクセルを開く。
 すると速度が上がる。
 警告灯が点く。
 空気が粘度を上げておれを撫でていく。


 その時だった。
「相変わらず無茶するね」
 隣にあのバイク、あの女が並んだ。
 古い2ストロークのバイクがあの夜と同じように低く叫ぶ。
 白い煙がアスファルトを撫で回す。
 群青の塊が溶けている。
 速度が上がる。警告灯が点く。赤い信号は青い右折サインを消して一瞬の黄色へ。
 その間隙を突いてアクセルを開く。
 速度が上がる。交差点を突っ切る。


「ほら危ない」
 女の声が聞こえる。
 声の方を一瞥すると、あの時と同じ格好をした女が時代錯誤のバイクに跨って並走しているのが見えた。
 おれは警告灯が消えないように速度を保って走り続ける。
 やはり、女もバイクも消えない。
 群青の塊が溶けておれたちを撫で続ける。
 目の前の信号は赤い。
 交差点で交わる信号が黄色から赤に変わったのが見えた。
 おれはアクセルを開けて停止している車の間を抜ける。
 細いバイクは危なげなく狭い車間を通って交差点に飛び出た。


 女と旧いバイクは右折車線から外側を回して再び先頭に飛び出たのがサイドミラーに見えた。
 遅れて、信号が赤から青に変わるのが見える。
 おれたちは並んで走る。
「無茶な運転をするね」
 女は以前と同じ声で言った。
 おれは警告灯を消さないように速度をコントロールしながら走り続けた。
 隣を走る女が誰なのかは知らない。
 フルフェイスのシールドは暗く中が見えない。相変わらずスカジャンが躍るようにはためいている。
 白いシャツは体に張り付いて、同じように裾が暴れている。まるで刺繍の龍が踊っているようだった。
 細い身体のラインが浮き出る。
 肋骨と胸の膨らみ、そして突起。
 おれのフルフェイスが鳴く。
 まるで窓を釘で引くような音を立てて隙間風をヘルメットの内部に送り込む。冷たい風が皮膚を刺す。
 低く叫び続けるエンジン。
 警告灯は赤を濃くする。タコメーターは1万近くを指している。グリップを失いそうなタイヤが揺れる。


「ほら危ない」
 女の嗤うような声。
 サイドミラーに赤色灯が光る。
 白と黒の車。スピーカーからひび割れた声で俺に何かを叫ぶ。
 おれは横を見る。
 女は同じ速度で走っている。その速度領域でだけ会える女。
 命と引き換えに得る速度。
 身体中の血が後ろに取り残されるような感覚。
 おれはその速度に酔う。
 溶けた群青色の塊がますます粘度を上げる。
 並ぶ車の隙間が曖昧になる。
 信号が変わる。
 アクセルを開ける。
 警告灯は消えない。
 エンジンが叫ぶ。
 速度が上がる。
 交差点を抜ける。


 赤い追尾灯が遠ざかる。
 いや、突っ切ったばかりの交差点から別の追尾灯が追いかけてくる。
 おれの赤い警告灯。追いかける赤い追尾灯。
 隣を走る女が速度を上げる。
 赤いテールライト。
 赤い信号。
 おれはアクセスを開き続ける。
 目の前に並ぶ赤いテールライトの隙間を抜ける。
 女のテールランプを追いかける。
 信号は青に。群青の中に。おれは。溶けて。行く。

 クラクションが鳴らされる。
 おれは意識をクリアに戻す。


 足の間で唸るエンジン。
 足の間で怒張するモーティブ。
 見開いた目に飛び込む景色は歪んでいる。
 隣を走る女。
 張り付いたシャツに浮かぶ肋骨と乳首。
 女の興奮が伝わる。
 群青の中。この道はどこに続いている。
 群青の中。月が明るい。
 群青の中。湿度が上がり続けて空気が濡れていく。
 群青の中へおれが入る。
 群青の中へ。月の中へ。
 おれをはおれ。突き刺すようにアクセルを開き続ける。エンジンの鼓動。おれの呼吸。
 赤い警告灯。赤い追尾灯。
 テールライトの群れ。
 すり抜けて赤い信号を潜る。


「あはは」
 女が嗤う。
 おれたちはその速度の中でだけ息をしている。速度の中に潜り込んで初めて息ができる。
 いや、女の呼吸におれが追いつき、どうにか同じ速度の中に棲んでいる。
 警告灯を消さないように走る。
 まるで鈍手で御神籤を結ぶように。それは願いか、祈りか。
 眠らずに唱え続ける経の様に。それは業か、徳か。
 群青の中へ。
 警告灯の中へ。

 おれは女と重なる。
 地上の光が全て星になる。赤い警告灯。青い信号。黄色いヘッドライト。群青。追尾灯。テールライト。混ざり溶けておれを包む。
 10000回転で回る心臓。
 月に向かう衝動。
 おれは白から飛び出す。
 おれから白が飛び出す。
 おれは光になり光はおれになる。

 オイル切れを起こして灼き付いたエンジンはもう動かない。
 キックペダルを踏む気にもならない。
 マフラーは二度と白い煙を吐かないしおれは二度と群青の中へは溶けていけない。
 おれは光になれない。
 縦の世界と横の世界を繋ぐ信号を潜り抜けた。
 もうおれはその夜に、その速度に、帰る事が出来ない。
 願い。祈り。
 溶けて薄くなったタイヤを撫でる。
 業。徳。
 浅くなった溝に詰まった願い。
 おれは手を合わせる。朝陽が昇る。信号の奏でる童謡。

 そう、おれはもう帰れない。

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