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統合失調症と笑いの種類を主観的に分析する

今回は、統合失調症と笑いについて主観的に分析してみたい。
まず、統合失調症は精神というか心の核の分裂だと私は考えている。
そう言うと、この病気が精神分裂病と呼ばれていたときのような誤解や偏見を持たれるかもしれないが、この病に罹った私の実感として、「心の核が分裂している」という表現がぴったりくる。ただ、そうなると、誤解として心がない、まともな思考ができない、などと思われるかもしれないが、そういうわけではない。心の核が分裂しているというのは、たとえるなら、ひび割れた鏡だと言ったらいいかもしれない。鏡自体は世界を映しているのだが、全体像として統合することができない。けっして鏡がなくなったわけではない。
 
さて、本題に入り、笑いについて考えたい。
「笑い」と一言に言っても、これには大きな問題がある。笑いには様々な種類がある。生理的なものも含められる。赤ちゃんの笑顔は生理的なものらしい。では、美味しいものを食べたとき、自然に出てくる笑顔も生理的なものと言えるだろう。しかし、漫才を聞いてゲラゲラ笑うのは生理的なものだろうか?統合失調症を経験した立場からすれば、あのゲラゲラ笑いは美味しいものを食べたときの、生理的な笑顔とは違い、精神的な作用のものである。どのような精神的作用かと言うと、心の核が分裂する精神的作用である。いや、分裂する作用と言うよりは、分裂をこらえようとして笑うのである。腹を抱えて笑うとき、人は苦しんでいるのである。こういうことを言うと、「面白いと思ったら素直に笑って見るといいよ」と言ってくれる人もいるだろう。私もそう思う。なぜなら、笑えるということは心の核が完全には分裂していなく、守るべきものがあるから笑うのだ。ゲラゲラ笑うことは幸福ではないが不幸でもない。ちなみに私は統合失調症を発症した高校生のとき、一年間ゲラゲラ笑った記憶がない。ポーカーフェイスだと言われた。これは、統合失調症の症状ではない。私は思想的な理由から一年間ゲラゲラ笑わなかった。あの頃、私は真剣に笑いというか幸福な笑顔について考えていた。その答えとして、広隆寺の半跏思惟像の微笑や、ギリシャ彫刻のアルカイックスマイルが理想の笑顔だと考えた。とはいえ、ゲラゲラ笑いを禁じるというのも極端な思想だと思い一年でやめた。むしろ、私は闘病生活に入ってから、お笑い番組をよく見た。ゲラゲラ腹を抱えて笑っていると「生きてることも悪くない」と思えるからだ。その頃の私は芸人が落とし穴に落ちるだけで大爆笑していた。笑い過ぎの感があった。それでも思想としては、ゲラゲラ笑いはあまり求めてするものではない、というのは変わらなかった。ただ、ゲラゲラ笑っていると嫌なことを忘れるという効能はある。それでもやっぱり、求めてするものではない。
下品なギャグにゲラゲラ笑うのと、美味しいものを食べてニッコリ笑うのとは似て非なるものである。まったく正反対な現象である。
私はこれからの学問として「笑い」をひとつの言葉でくくるのはやめにして、細かく分類し名前を付けて使い分けるべきだと思う。雪と雨が違うように。

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