見出し画像

東浩紀の「一番メタな視点に立てた者が一番頭が良い」と言う言葉の意味を考える

東浩紀は以前どこかで、「今の哲学は誰が一番頭がいいかのゲームになっている。誰が一番メタな視点に立てるかのゲームだ」みたいなことを言った。この意味を考えてみたい。
まあ簡単な話、メタな視点に立つとは、現実を俯瞰して見ることだ。そして、東浩紀風に言えば、より高い位置から俯瞰した者がより頭がいいと言うことになると思う。つまり現実を俯瞰しているカメラマンがいて、さらにその上にまたカメラマンがいて、さらにその上にという風にずっと無限後退みたいにメタなカメラマンの列ができる。その最後尾にいるカメラマンこそもっとも時代を俯瞰して見ている頭の良い人になると思う。
そこで、私は思う。
では、一番下にいるのは誰か?
まったく俯瞰しない人はいるだろうか?
 
俯瞰する者は少なからず太宰治の「一切は過ぎて行きます」の感覚がわかる人だ。単純な人は『人間失格』という作品を全否定すると思う。暗いというただそれだけで。
しかし、単純な人はバカなのか?
私は単純な人はバカだと思う。しかし、ある意味一番得をしている人だと思う。なぜならそういう人こそ人生の現場にいて、最も人生のドラマの主人公を堪能していると思うからだ。
では人間は単純であるべきか?
この俯瞰、メタな思考という能力はなんのためにあるのか?
私はこの能力を肯定的に捉えたいが、なんのためかという問いにはまだ答えられない。そこまで考えていない。ただ、今回の文章は、メタな視点があるならば、その反対はなにか?と思ったので書いてみた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?