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真実とは何か(仏教を中心に)

私が宗教や哲学、文学を考えるようになったきっかけは、中学三年生のときに手塚治虫の『火の鳥』というマンガを読んだことだった。いや、違うかもしれない。私は小学生になるかならない幼い頃、「宇宙に果てはあるか」という問題を深く考えたことがあった。そして、結論として、「その答えは出ない。そんなことを考えているより、今日、これから何をして遊ぶかを考える方が重要だ」と答えが出た。それ以来、中学一年生くらいまで、毎日、その日一日をいかに楽しむかしか頭にない生活を送っていた。毎日が本当に幸せだった。
『火の鳥』に出会ってから、私は目の前の現実を素直に楽しめなくなった。手塚治虫の『ブッダ』も読んだ。それ以来、仏教にハマった。手塚治虫は「真実とは何か」とか「命は大切」などと訴えている。彼は「命は大切」ということを教えるのがライフワークみたいに思っていたらしいが、彼のマンガを読むと、子供の私のほうが命の大切さを知っていたように思う。命が大切だと強く訴えたいならば、人が死ぬシーンを描いてストーリーを面白くすることは矛盾じゃないかと思う。とくに、手塚作品では残酷に殺すシーンがある。
手塚治虫は「真実とは何か」ということをしきりに言っていたように思う。中学生の私は、その問いの意味がわからなかった。なぜなら、その問いは、「真実」というものがあると想定して、それが何か答えが欲しいといった構造になっているのだが、それは漠然と「真実」のイメージを持っているから、成り立つ問いであると思う。宇宙の果てはあるか、という問いに対しては、「ある」とか「ない」というのが真実だと思う。しかし、宗教などで「真実」と言うと、「人生の真実」も含まれる。いや、「人生の真実」こそが究極の真実となるような気がする。つまり、幸福になるための知が真実であるということになる。
仏教ではブッダの悟りが真実である。私は初め、悟りの意味を「すべてがわかる」ということだと思った。宇宙の果てのことや、宇宙の始まりや終わりはあるのかとか、死んだら意識はどうなるかとか、あらゆることを「わかる」ことが悟りだと思った。しかし、仏典を読んでみると違った。ブッダはこう言う。「目の前に矢が刺さって苦しんでいる人がいたら、どうする?その人に宇宙の果てがあるかないかを教えるかね?私はその矢を抜いてあげる人間だ」。ブッダの関心は宇宙などのことではなく、人の心、幸福な人生にあった。それは結局のところ、宇宙の真実よりも、人生の真実のほうが重要であるとブッダは考えたからだろう。
このように少し深く考えると、「真実」という言葉の意味が限定されてくるように思う。しかし、上記したような仏教の真実だけに「真実」という言葉が使われているわけではない。推理小説などでは事件の真相のことを真実と言ったりするようだ。しかし、哲学の立場から言うとそれは事実であって真実ではない。じゃあ、真実とは何なのか?
仏教では「悟り」という言葉があるのでここからは「真実」を「悟り」の意味から離して考えようと思う。哲学は真実を論理的に探究する学問だ。ただ、初めに真実というものを措定されてしまうと、それがあること前提でそれを探求することになってしまう。だから、「真実とは何か」という問いは、まず、私たちは真実という言葉に何を期待しているか、そのことから考えなければならない。しかし、この「真実」という言葉は人間が作り出したものだと私は思う。哲学者とかではない普通一般の人は「真実とは何か」などという問いに頭を悩ませたりしない。主婦ならば「晩のおかずは何にしようか」などが一番の重要命題である。そんな主婦にとって、真実とは何かと深刻な顔をして「空想」に耽っている哲学者を見たら、「パッとしない人」に見えるに過ぎない。
こう書いてみると、結局は、私が幼い頃、宇宙に果てはあるかなどという問題に頭を悩ませるより、毎日を楽しく生きることに頭を使うことの方がずっと重要であると原点回帰ができると思う。

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