見出し画像

短編小説を書きたくなるとき

私には小説を書きたくなるときがある。
いや、小説家を目指して長編小説を常に考えて暮らしているのだが、今回書きたいのは短編の話だ。
短編の構想が不意にフッと浮かぶときがある。そういうときは精神が不安定なときが多い。
それを書かないではいられなくなるのだ。
そういうわけで、そのような時に書いた短編は何かの感情を表現していることが多い。
あるいは自分でも気づかず、自分の人生の現在地などを書いていることが多い。
また、純文学ではなく、お笑いのネタが思い浮かんでカタチにしなければ収まらないときもある。そんなときは『読むお笑い』というマガジンにそれを書く。
短編小説は私の全体ではなく部分であるような気がする。
長編こそが私の人生を賭けた小説である。
しかし、noteに投稿した小説は短編の方が読まれやすいようだ。
私も大長編に付合う覚悟はない。
大長編とは何日もかけて向き合うため、紙の書籍を買ってじっくりと向き合いたいものだ。noteではあまり読みたいとは思わない。
短編ならば一気に読めるため、noteでも気軽に読むことができる。
そんな私は大長編を載せているのだが、あまりスキは押されていない。
しかし、不意に書きたくなる短編とは私にとってなんだろう?
精神が不安定になったときの処方箋だろうか?
そういえば、小説ではないが、美術館などに行ったあと、無性に絵が描きたくなることがある。小説もそういうものだと思う。何かに触発され、どうしても書かずにはいられない衝動に駆られる。
私は短編にそれほど推敲を重ね時間をかけて書きたいとは思わない。むしろ、そのときの感情がなくならないうちに一気に書き上げたいと思う。衝動が収まってしまってから書くようでは作品はカタチにならない。少なくとも推敲は全体を書き上げてから、少しだけ行うことにしている。明らかな文章ミスなどは必ず直す。衝動を叩きつけた作品のほうが私の短編の場合良いものができる気がする。少なくとも、衝動があるうちに書けば全体の統一感が生まれる。衝動がないときは良いものは書けない。
いや、これは最近の話だ。
昔は短編もじっくり何日もかけて推敲していた。しかし、私の創作の軸が長編の冒険ファンタジーに映ってからは、短編純文学は、推敲せず一気に書き上げるスタイルになった。昔、推敲を重ねて書いたもので気に入っている『駅』という小説がある。私の『小説集』というマガジンにあるので読んで欲しい。その小説には多くの読み解く仕掛けがあるので何度読んでも新しい発見があるようにしている。しかし、文学新人賞には通らなかった。それでも私はその作品の価値を疑わない。最近の衝動に任せて書いた短編にはない完成度の高さがある。こんなことを言っていると自画自賛なのだが、私は小説に関しては辛口であり、自分の過去の作品についても辛口で、その辛口の私が推しているのが『』という作品だ。
そういえば、そんな辛口の私でも「素晴らしい」と思わせてくれる小説がある。そういうものは短編でなくとも、読める。ただ、何日もかかる程長いと、私にも他にやりたいことがあるので、躊躇すると思う。
私は良い小説は、書籍だろうとnoteだろうと関係なく読まれると思う。私はnoteを自分のプラットフォームにしている。小説については「小説家になろう」に載せることもあるが、純文学の短編はnoteの方が読まれるし、反応もわかるので、noteにしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?