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小説の書き方。教育論

私は小説家を目指しているのだが、そういえば、私の義務教育や高校時代、国語の授業で小説を書くというのを受けた覚えはない。国語で名作をたくさん読んで作者の言おうとしていることを読み解こうなどという教育ばかりでは、洞察力など、考える力は育たない。そんな教育をしているが為に、小説家より評論家のほうがお勉強のできる人が多いと思う。
少し回り道をして教育について考えるが、私は小学生の頃、音楽の授業が嫌いだった。私は男気が好きで、音楽など女のする物だと昔気質みたいに持論を持っていた。当時、クラスにはひとりはピアノを弾ける者がいて、それは決まって女子だった。それ以外にも音楽に対する反発はあった。なぜ、ドレミファソラシドなのか?アイウエオではダメなのか?音は高い低いと言うが、私の感覚では細い太いだった。そのような自分の感覚を無視して、こう決まっているから覚えなさいと一方的に押しつけられるのが嫌だった。音楽など楽器をひとつ与えられて自由に音を出していいですよ、と言えば自然と曲を作って演奏するようになると思う。楽器は値が張るが、学校にある楽器を好きなように演奏してもよいと開放していれば、音楽の好きな者は勝手に演奏して覚えるかもしれない。楽譜を覚えるなどというのは後回しで充分だ。高い低いを細い太いと表現することも子供の感覚の豊かさであるのでそこを矯正してはならない。図工、美術の授業はかなりクリエイティブなことをするのに、音楽は深く教わらなかった。中学では合唱しかやらなかった。合唱はたしかに音楽だが、それは音楽の一部に過ぎない。私は高校生になり、音楽を聴くようになって、ギターを覚えようとしたが、コードの押さえ方などが難しかったし、コードとは何かもわからなかったし、ギターも古かったので、途中で投げ出した。家にオルガンがあったが、適当に弾いていて、それはとても楽しく映画音楽のメロディラインなどを自分で音を探して弾いていた。楽譜は読めなくとも楽しむことはできた。そういう楽しみをまずは教えるべきだろう。
私は合理主義的な子供で、算数の問題で、四つのおまんじゅうの入った袋がふたつあったら、おまんじゅうは合計いくつ?八。そういうのは押しつけではなく、自分で考えて間違いなくそれだと言えたから納得できた。理科も磁石を発泡スチロールに入れて水に浮かべるとN極は北を指し、S極は南を指したので、自分の目で確かめて、たしかにこの地球には磁力があり、東西南北もすんなりと覚えることができた。しかし、中学生から始まった英語は苦手だった。これはすべて押しつけだった。I am a boy.と言う文章があれば、そのboyの前のaは何なのだ?なぜ、「ひとりの」を強調しなければならないのだ?日本語ならば、「僕は少年です」というところを、英語では「僕はひとりの少年です」と言わなければならないところが納得できなかった。そういうものだと決まっているから覚えなさい、と言うのは本当に腹が立った。まあ、英語は海外に出て行くには必要と思ったから勉強したが、結局私には無理だった。
そんな私は高校で文系を選んだ。理由は数学が面倒くさかったからだ。数学は得意だったが、サイン、コサイン、タンジェント、とか、微分積分とか理解しようとすれば理解できたと思うが、私にはあの謎の言葉たちが押しつけのような気がしたし、当時マンガ家を目指していたので、数学はそこまで必要ではないと思った。好きだった理科も文系に進むと生物しか取らなかった。本当は物理なども中学の頃の成績から推せば得意なはずだったが、マンガ家の手塚治虫の理系の頭が嫌いで、文系科目の方が重要と思った。当時高校生の私はなぜ生きるかなど、答えが無いものの方が面白いと思った。手塚治虫はそういうことを問い続けたマンガ家でありながら、いつまでも理系脳でその問題を考えていたところが彼の限界だと見切りをつけた。医者は頭がいいから人生の奥深さも知っている、などというのは学歴主義が生み出した神話だ。医者でもバカはバカだ。
さて、人生の奥深さという言葉が出たところで、表題の小説の書き方について考えてみよう。小説の書き方を教わるとか教えるとかいうのはどういうことだろうか?生徒の書いた小説を先生が審査して、十段階の成績をつけるのか?それは美術がやっている罪深い残酷な、才能の芽を摘み取る行為と同じで、美術の成績が悪いから僕はデザイナーにはなれない、などという絶望を少年たちに与えるように、先生の評価が低いから僕は小説家にはなれない、と思い込む少年がいたら、それはアホなことだ。小学校、中学校、高校、あるいは大学の教師が、どこまで小説を書く能力を備えているだろう?私は子供に小説を自由に書かせることは、教育上極めて重要なことだと思うが、それを教師が添削したり評価したりすることには反対だ。自由に書かせ、友達同士で回し読みするのがいいと思う。小説を書くとは己を知ることになるから、精神的に非常に成長を促すだろう。
「小説家になりたい」そう思った少年あるいは大人が、まずすることは、「小説の書き方」などという本などを読むのではなく、実際に自由に書くことに限ると思う。それは音楽が、初めから楽譜の読み方を教えるのではなく、楽器を与え、遊ばせてみるのがいいのと同じだと思う。紙とペン、今ならばパソコンで、自由に文章で遊ぶことが、小説やその他の文章力を身につけるには最良の道だと思う。小説の創作に、教科書も先生もいらないのである。
 
*私はこういう文章を書いているが、小説家になれていない。そんな私がこのような教育論を述べても説得力は無いだろうか?説得力を持たせるためにも、私は良い小説を書いて、小説家にならなければならない。有言実行である。

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