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小説家と自分を対比する

私は小説家になりたい男で、もう四十五歳なのだが、まだまだ、独身で夢を追いかけている。
気分は二十代だ。
私の小説家としての実力はどうなのだろうと考えた。
そんなとき、山崎ナオコーラという小説家を引き合いに出して考えてみた。
彼女と私は同じ歳で、同じ國學院大學を出ている。私は一年浪人しているからたぶん学年は彼女の方がひとつ上だ。
彼女は日本文学科で、私は哲学科である。
山崎ナオコーラと言えば、デビュー作『人のセックスを笑うな』が有名だと思う。これは河出書房新社の新人賞「文藝賞」を受賞している。私も受賞したいがそんなことはどうでもいい。
確かに『人のセックスを笑うな』は良い作品だ。私は夢中で一気に読めたと記憶している。
しかし、彼女の小説は他に読んだことがない。いや、『浮世でランチ』というのも読んだが、今ウィキペディアを見て思いだした。
エッセイも一冊読んだ。『ブスの自信の持ち方』という本だ。
このエッセイを読んでいて、私はその文章構成について色々批判したくなった。
エッセイだから起承転結もなく徒然に書けばいいのかもしれないが、文章になんというか読んでいて気持ちの良い流れがなかった。「ここはさっき言ってたことと同じじゃん」とか、「ここでもうちょっと踏み込んで欲しいよな」などと、思うところがいくつもあった。そして、最も私が違和感を覚えたのが、「私は文章が上手い」と書かれていたことだ。
確かに彼女は作家である。確かに『人のセックスを笑うな』は良い作品だ。しかし、その作品だってそんなでもない、と私は思っている。私が凄い作品と思うのは歴史に残る名作で、夏目漱石の『こころ』とか、芥川龍之介の『羅生門』とか、太宰治の『人間失格』とか、三島由紀夫の『金閣寺』とかが尊敬できる作品で、『人のセックスを笑うな』が歴史にどう残るか知らんが、そんなでもないと私は思う。こう批判すると、「じゃあ、おまえはどうなんだよ?」と言われそうだが、小説の出来はともかく、文章では、『ブスの自信の持ち方』の文章よりはいい物が書けると思う。彼女の文章が上手いと言うのは、下を見た場合である。素人を見た場合である。そうではなく、彼女が三島由紀夫と比べて文章が上手いか、そういうふうにプロならば考えねばならない。ちなみに私自身は三島由紀夫には遠く及ばないと思っている。それは文章のセンスと言うよりは彼の圧倒的な語彙力には頭が上がらない。しかし、語彙力自体は小説の価値を云々する材料にはあまりならない。語彙力と言えば中島敦の『山月記』は尊敬に値する小説だが、たしかに良い文章だが、内容がそんなでもない気がする。そう思うと三島由紀夫は別格であると思う。しかし、そうやって神様みたいに人を祭り上げると、その人を超えることが出来ないから、やめておく。そういえば文章力で他に別格と思うのは村上春樹で、あの文章は誰もが真似をしたがる魅力があると思う。私も彼の真似から小説の道に入った。
最後に、作家というか、ジャンルが違うのであるが、私が最も意識している芸術家について述べておく。それは宮崎駿である。彼はアニメというジャンルでかつてないものを作ってきた。それは多くの人に支持され、魅了してきた作品が多い。私は物語を書きたい小説家志望の男で、私の目標は彼の長編アニメーション映画より人々が夢中になれる小説を書くことだ。いや、それは小説ではないかもしれない。物語だ。三島由紀夫は物語を構成する能力にも秀でていたが、文学の世界があまりにリアリズムに向いていたので、空想というのが文学界では軽視されていて、そのために三島由紀夫の想像力は抑制されていたような気がする。『豊穣の海』は素晴らしいが、輪廻転生という超常のものを書いているのにリアリズムが邪魔して想像力が抑制されてしまっている気がする。
私はファンタジー小説を書きたい。そして、そこから純文学に踏み込んでみたい。
そういう作家では宮沢賢治などがいい例かもしれない。宮沢賢治は文学の世界を超えて人気のある作家である。
私もファンタジー小説を書きたいと言うものの、そのジャンルはこうでなければならない、みたいな形が決まっているとしたら、私はそれを拒否したい。自由に想像した物を形にしたいだけなのだ。
いや、山崎ナオコーラからここまで書けた。小説家と自分を対比すると言うことだが、こうして考えてみると、私は自分の立場というものがまだわかっていないような気がする。これが「大橋勇」だ、というジャンルを開拓してみたい。
いや~燃えてきた。

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