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読むことを拒否する小説

リアリズム。

それは創作したものを現実に近づけること。

現実のような小説、
現実のような映画、
現実のような絵画、

これらは「ような」であって現実ではない。

そっくりに作られた偽物だ。

小説に注目して、考えたい。

リアリズムとはなんだろう?

小説の中が現実で外の世界は現実ではないというものでもない。

私は読もうとするとそれを拒否するような小説こそ究極のリアリズムだと思う。

小説内に別の現実を作らず、読むな、現実を見ろ、というのが真実のリアリズム小説かもしれない。

例を挙げれば、石原慎太郎の小説などがそういう類いかもしれない。私は彼の小説をたくさん読んだわけではないが、『太陽の季節』など読んでいてそれが創作物ではなく新聞を読んでいるような気分にさせる文章だった。本の中にもうひとつの現実があるのではなく、読者の世界と小説内の世界に境界線がなく、小説内に入り込むことを拒否するような文章だった。

文学のリアリズムは、そこに現実が書かれてあると言うよりは、読まれることを拒否して、「本の中には現実はない、本など読まず人生を生きなさい」というのがリアリズムの行き着いた場所であると思う。

ところで、この文章の「読むことを拒否する小説」という題名は、岡本太郎の作品「座ることを拒否する椅子」から取った。青山の美術館にあると思うので、興味のある方はそこに行って、座ってみるのも面白いかもしれない。

しかし、小説は読まれることを拒否してこそ、リアリズムであるのだろうが、それでは小説の存在意義はなんだろうか?

私は小説は異世界への窓であり、読んでいる間は現実を忘れられる、というリアリズムとは正反対のものに存在意義を見いだす。

そして、異世界を書いてこそ、この現実の世界が広がるのだと信じている。

現実と虚構というふうにふたつに分けるのではなく、虚構も現実の延長線上にあると思いたい。虚構を排したリアリズム小説は小説である以上虚構から抜け出ることはないのだから、小説家は小説は虚構である、虚構は現実の延長線上にあると割り切って書いていくのが筋だと思う。


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