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山カレー

本日は雨が上がり、十時に起きた私は、その天気を見て、山に行こうか、やめようか考えていた。
起きたのは十時である。近場のいつも登る、高草山という山しか選択肢にない。そこは近いので無計画に行ける山である。標高五百メートルほどで、焼津市と静岡市の間に跨がり、私がいつも登るコースは焼津側に登山口がある。広い駐車場もある。一時間で登れる山だ。


しょっちゅう登っているので、なんの特別感もないし、その分の時間を他に使った方が有意義にも思う。
そこで、いつもこの山に登るときは山頂での食事を楽しみにする。
まあ、どこの山に行っても山頂での食事は楽しみだが。このいつも行く高草山では登る楽しみより、食べる楽しみの比重が他の山より大きくなっている。
そして、今日は昨年買ったレトルトのごはんを賞味期限までに食べたいと前から思っていて、家にカレーのレトルトがあったから、次に行くときはカレーにしようと決めていた。
しかし、昨夜の我が家の夕食はカレーだったため、山に行かなくとも自宅で昼食はカレーであることは決まっていた。つまり、どちらのカレーを食べるかで私は迷った。山頂でレトルトを食べれば、家のカレーが無駄になる。いや、夜に食べてもいいが、そうすると、昼も夜もカレーとなってしまう。
私は空を見た。
晴れている。
山が呼んでいる。
私は山に行くことに決めた。
すぐに仕度はできた。私は車を走らせ登山口に着くと、公衆トイレでオシッコをしてから、登り始めた。


この山は年に何十回も登るため、十五分歩いて小休止するという登山方法をとっている私には、どこで小休止になるか予測が付いている。一時間で登ってしまうため、小休止は三回である。ザックを降ろし、ペットボトルのお茶を一口飲む。飲んで呼吸が整えられたら、またザックを背負い、登り始める。

毎度登る山なので飽きているのか飽きていないのかわからないが、今日は花も咲いていて、春が近いという季節感があった。二月二十日であるが、温かく、上着がいらない程だった。
途中何名かとすれ違ったが、山頂には私ひとりだった。
ひとりで富士山の見えるいつものベンチに腰掛けて、さっそくレトルトのごはんとカレーを温める準備を始めた。

しかし、山でカレーとは山メシの定番であると思う。他に定番と言えばラーメンだろうか?しかし、私が高校時代の山岳部では、レトルトではなく、山に行くと、鍋でカレーを作っていた。ニンジン、タマネギ、ジャガイモ、それから肉は傷むので、コンビーフなどを持って行った。その山岳部ではごはんも米から炊いていた。たしかに米はレトルトより、毎食分ビニール袋に分けて持って行けばかさばらないし、便利である。昔の旅人はたぶん米を携帯していたのではないかと思う。

わかるだろうか?
富士山が見える


レトルトのごはんができるのに十五分、カレーは七分温めると書いてあった。つまり、ごはんが残り七分になったらカレーも同じクッカーに入れて温めれば良い。私は待った。待つ間、何もしなかった。退屈というのではなかった。火を使っているから離れるわけにもいかない。富士山を眺めたって、いつも見ているし、今日は霞んでいる。私はクッカーとにらめっこしていた。この時間は無駄だろうか?いや、この時間がいいのだ。「待つ」という行為、いや、行為とも言えない行為が、現代の日常生活には少なくなってきているように思う。私の仕事も、待つ間に別のことをした方が効率がいい、ということで待つ間は無駄がないようにするのが日本社会の労働では当たり前になっていると思う。登山というかアウトドアには待つ楽しみがある。非効率だとか責められない贅沢な時間だ。

贅沢と言えば、私は今年、ペルーに旅行に行こうかと少し考えた。憧れのマチュピチュを見たいと思ったのである。ペルーとは南半球、南米にある国で、日本からでは地球の裏側である。もちろんそれだけの交通費と時間がかかる。私が調べたところ、八日間の旅行で百万円はかかるようだった。行くとしたら、六月がいいかと思った。しかし、私は小説家を目指していて、今、書き途中の作品があるからそれができるまでは小説に集中したく、ペルーに行くとなると頭の中がそっちに行ってしまい、小説がダメになるだろう、まあ、四月ぐらいには小説は完成しそうなのだが、それから、ペルー旅行を準備するとなると、仕事も休みが取れるかわからないし、バタバタとして肝心の旅行が楽しめないだろう、そう思い、今年のペルー旅行は諦めた。その代わり、夏山登山をたくさんしようと考えている。一昨年、テントを買ったので、テント泊をたくさんしたいと思う。ペルー旅行よりはおカネもかからない。では、山でカレーを食べて贅沢だと喜んでいる私は安上がりな人間なのか?私が億万長者で遊んで暮らせるならば、カネのかかる海外旅行ばかりで日本で登山することはないのだろうか?いや、私は日本での登山をやめない。山でレトルトのカレーが温まるのをじっと待っている私のこの時間は贅沢ではないのか?いや、贅沢というのはなんだろう?かかった経費によって数字に表われるものだろうか?贅沢とはそれを味わっている人の主観的な気持ちだろうと思う。そうなると、普遍的な贅沢を考えてみたくなる。

サンテグジュペリの小説にあったが、砂漠を彷徨った人にとって一杯の水はこの上ない贅沢だという。乾きが、空腹が、贅沢を作り出すのかもしれない。つまり、贅沢は、あえて乾きや空腹を求めて、それを満たす所にあるのではないか?金儲けにもならないスポーツをして、乾いた喉を潤すあの快感。そして満たされた感覚。登山も趣味である。趣味で大変な思いをして登り、山の上で、カレーを温める。そして、待つ。たぶん、経済的に無意味なことをしているから贅沢なのだろう。


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