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書物の実在性について

我々は書物というと、普通、印字された紙の束ねた物を思い浮かべると思う。しかし、大昔は紙ではなく、石板だったり、動物の皮だったり、木簡であったりした。それが時代が下ると紙が発明され、現代のような印刷された紙を束ねた物になる。東洋では巻物というカタチもあったが、それもずいぶん古い時代に廃れてしまった。そして、現在、紙の書物という存在がなくなるかもしれない時代に来ている。電子書籍の登場だ。現在はまだ過渡期で、書物の中の一部の電子化されたものしか電脳空間の端末で読むことができないが、将来はすべての書物が端末で読めるようになるだろう。端末とは電脳空間を覗き込む窓であり、電脳空間にある電子書籍はその窓を通して読むことができる。

しかし、電子書籍は書物だろうか?
書物とは「書かれた物」である。電子書籍は電脳空間にある。たしかに端末で文字として読むことができるが、端末の画面に書かれた物ではない。そう言うと印刷された物さえ書物かどうか疑わしくなってくる。印刷とは書く行為だろうか。人間がペンや筆で一文字一文字記した物こそが正真正銘の書物だろう。だが、歴史はそのような事実を忘れてしまい、人々は印刷された物も書物と呼ぶようになった。結果として書物と言うと普通、印刷された著作物を言うようになった。人の手で書いた物よりも印刷された書物こそが価値のある物とさえ思われるのが一般的かもしれない。しかし、本当はそうではない。私は人の手で書いた物を「ナマの書物」と呼びたい。小説家の手書き原稿は「ナマの書物」の代表的な物で、いわゆる文豪が書いた手書き原稿は博物館に収められるほどに価値の高い物とされている。文豪でなくとも、日記などは、その著者が死んだ場合など、残された家族には本当に価値のある物とされるだろう。印刷がその使命である大量生産の手段であるがゆえに、この世に一冊しかないナマの書物のほうがより価値の高い物とされるのは当然だ。もちろんこれは書物の内容の価値ではない。内容の価値であれば、ナマの書物も印刷された書物も電子書籍もその価値は変わらない(内容が良いものは現在では印刷出版されるので、印刷された物の価値が高いと考えられる所以となっていると思う)。ナマの書物や印刷された書物の価値はいわゆるフェティシズムにあり、それが電子書籍との違いと言えるだろう。だが、本当にそうだろうか?ナマの書物や印刷された書物の価値を電子書籍と分けるのは、フェティシズムのみだろうか。そこで考えたいのは電子書籍はどこにあるのかという問題だ。それはすでに電脳空間にあると私は上で述べているが、その電脳空間はどこにあるのだろうか?それは宇宙空間のような物理的な次元において、コンピューターの中にあると言うのが正確な答えだろう。ここで私は電脳空間を抽象的な次元ではなく、物理的な次元に結び付けている。これは「文学はどこにあるか?人間の脳の中にある」と言うのと変わらない。なんのロマンもないが、事実だから仕方がない。では、ナマの書物や印刷された書物はどこにあるか?それはコンピューターの中などではなく、この物理的宇宙空間の中に「物」として存在している。全世界のコンピューターが壊れてしまえば消滅してしまう電子書籍とは違う。私はここに「書物」の定義を見る。「書物とは書かれた物であり、宇宙空間に物理的な『物』として存在している物である」。つまり、電子書籍は書物ではないと言える。

*追記
しかし、私はこの記事を一度、紙のノートにペンで「書き」、パソコンに「書き写した」。ペンでも筆でもなく、キーボードで「書いた」。「書く」という言葉は文章を文字にする作業を言う。時代が過ぎればまた新しい「文章を文字にする手段」が登場するだろう。それを使用することを人々は「書く」と表現するだろう。そして、その文章を「書物」と慣例的に呼ぶようになる可能性は大きい。しかし、物理的宇宙空間に質量を持って存在しなければ、やはり、『物』とは言えないのである。

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