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哲学科大学教授と小説家

私は國學院大學の哲学科を出ていて、小説家を目指しているが、同じ大学同じ学部学科の先輩に諏訪哲史という芥川賞作家がいる。彼は『アサッテの人』で芥川賞を受賞したが、私にはその作品の意味がわからなかった。他の芥川賞作家で円城塔という人がいるが、その人の芥川賞受賞作『道化師の蝶』も意味がまったくわからなかった。私には文学を読む力がないのだろう。
その大学の先輩である諏訪哲史は、國學院大學の哲学科を選んだ理由として、当時そこの教授であった美学者の谷川渥に学びたかったからだと言った。私はそれを読んで首を傾げた。「本当かな~?」なぜそう思ったかというと、私は國學院大學の偏差値を高いと思ってなく、東京大学とかに行く学力があれば東京大学に行きたいと思っていて、しかし、自分の偏差値では國學院がやっとだったので仕方なくこの大学に決めた、そういう理由から諏訪哲史もたいした学力は無いが、國學院を選んだ理由を聞かれたら有名な教授である谷川渥の名前を出しておけば格好がつくと考えたに違いない、と考えたからだ。私は受験生の時、どの大学にどんな教授がいるか、まったく知らなかった。マンガ家になりたかった私はとにかく上京がしたくて、「東京のなるべく偏差値の高い大学」ならばどこでもよかった。学部にもこだわりはなかった。で、結局國學院大學の哲学科に進んだ。だから、私は同じ私立の大学でも早稲田とか慶応とかを上に見ていた。しかし、中学の同級生とかで、私と対して学力の変わらない者が早稲田などに進んでいるから、たいした違いはない、私は精神を病んでいるから実力を出せなかっただけだ、と思うことにした。
國學院の哲学科教授で私がよかったと思うのは、谷川渥ではなく、宮元啓一というインド哲学の教授だ。この人はメチャメチャ博識なのだが、インド実在論哲学の専門で、どうもブッダに嫉妬しているような感じがした。私が在学中に離婚している。「これで性欲とは無縁になれた」みたいなことを言っていたような気がする。結局仏教の影響を多分に受けている人だ。私も大学時代は仏教の影響を強く受けていたから、この人を尊敬していた。しかし、それ故か、宮元啓一のブッダへの嫉妬を強く感じた。そして、彼は「日本人はアニミスト」などと断じていたが、その答え自体にはたいした深みはないような気がする。たしかに彼は博学で深い哲学がある。しかし、その深い哲学から出た答えがたいして面白くない場合、一般の人から見ればつまらないと感じられるものだろう。なんのための哲学か?「行動」が支配する一般世間において、哲学はどのような存在価値があるのだろうか?私が大学時代同じ学科の学生と真剣に問題にしたのは「哲学は役に立つか」という命題だった。法学部や経済学部あるいは経営学部、または理系の学部の学問は社会に出て直接役に立つように思える。しかし、哲学をやったところで、社会に出て何の役に立つのか?それは哲学科の学生にとって切実な問題であった。だから、國學院大學の哲学科の学生の多くが教職を取ったり、美学芸術学を学んで博物館や美術館の学芸員の資格を得たりした。私はマンガ家になれれば哲学は相当役に立つと思っていたから、そういった教職や学芸員の資格には興味が無かった。そして、私は二十代から小説を書き始め、四十代の現在まで小説家を目指している。諏訪哲史や円城塔のような一般にはわかりにくい小説ではなく、多くの人が楽しめる冒険ファンタジーを書いている(つもりだ)。そこでも哲学は役に立つ。
そういえば、哲学者で小説を書く者がいる。
サルトルは『嘔吐』という小説を書き、ノーベル文学賞に選ばれたが辞退した。日本では東浩紀が『クォンタム・ファミリーズ』というわけのわからない小説を書いて三島由紀夫賞を受賞している。哲学者の千葉雅也も小説を書いていて、芥川賞の候補に何度か挙がっている。私は千葉雅也の本は一冊も読んでなくどういう人か知らないのだが、ドゥルーズの研究者というだけで、あの難解な哲学書を読めるなんてすごいなぁ~、と思い敬して遠ざけている。しかし、私は小説とは哲学を表現する媒体ではないと思っている。それでも、三島由紀夫の『金閣寺』はリスペクトしていて、小説であれほどまでに思想を表現した作品を私は他に知らない。いや、先に出した、『アサッテの人』や『道化師の蝶』『クォンタム・ファミリーズ』なども思想を表わしているのかもしれないが、小説の体である物語性が弱いと思う。私は小説は物語であるべきだと思っているので哲学を表現しただけの小説はあまり評価していない。
私は國學院大學では特に何かの資格を取ることはしなかった。今では、教師や学芸員に少しは憧れがある。あの守られた世界で、幸せな人生を送ることは確かに魅力的だ。私自身、親が教師で経済的には安定した子供時代を過ごした。しかし、父を見ていると何かが足りないと思った。カネを儲けることを蔑視しているくせに、乗っている車は、ミドルクラスの車(カローラとか)で一度も軽自動車を所有したことはない。私は大学卒業後はフリーターで低所得者のため中古の軽自動車を買った。介護士になった今では二台目だが、やはり軽自動車だ(自動車はその人の経済力と価値観が表われると思うので言及した)。教師は自分は普通だと思っている者が多い気がする。私の母は教員免許を持っている教育ママで、その割には「普通になって欲しかった」と言うのだが、私が「俺が国家公務員になるとしたら三種だったね」と言うと、「あんたは二種じゃなきゃダメよ」と言った。母にとっての普通とは、社会階層として「中の上」なのだ。そんな親に育てられた私は先に述べたように小説家を目指している。小説で世界の頂点を手に入れようと野心をメラメラ燃やしている。私の中で哲学は強く生きている。そして、現在、哲学書は敬して遠ざけている。哲学は「論理病」的なところがある。なんでも論理で説明しようとするところがある。しかし、小説は論理だけではない。感情も重要になる。私にとって小説というフィールドのほうが自由を感じる。『アサッテの人』みたいな哲学的な小説もあり得るし、心躍る冒険ファンタジーでもいいのだ。
ところで、「哲学は役に立つか」と悩んでいる哲学科の学生にちょっと先輩として(偉そうだが)アドバイスをすると、哲学は他の科目、例えば法学などを学ぶときに非常に役に立つ。法学以外にも哲学をきちんとやっていれば、スッと頭に入ってくる学問は多い。私は社会福祉士という資格を四十歳で取ったが、そこでも哲学は生きたと思う。それと私は現在介護士をしているが、年寄りと話すときにも哲学の知識が役に立つ。知識というか過去に深く思考したことが役に立つ。そういった眼に見える効果だけでなく、哲学をきちんとやっておけば、あらゆるところで役に立つと思う。ただ、私は小説を書くために哲学を離れた。哲学はたしかに論理病的なところがある。しかし、哲学を知らないくせに頭ごなしに「哲学は役に立たない」と言う人を見て、哲学を学んだ者の眼にはどう映るか、それを考えて見て欲しい。そんなとき、哲学をやってよかったと思えることは間違いない。

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