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ひとり故郷の高草山の上でラーメンを食べる

高草山は私の故郷、藤枝・焼津と静岡の間を隔てる山である。東海道は江戸に向かってこの山を越えるために狭い谷の中に入っていき、宇都ノ谷峠という場所を越えなければならなかった。越えれば芋粥で有名な丸子の宿に出る。
この高草山であるが、私は仕事が休みで晴れとなると、登山のトレーニングを兼ねてひとりこの山に登る。その際は、ほとんどの場合、カップラーメン一杯とおにぎりをふたつ持って行く。標高五百メートルあまりのこの山は、約一時間で登ることができ、林叟院(りんそういん)という寺にある登山口も自宅から車で十五分程度と好位置にあるので、私は思い立ったら、すぐにこの山に登ることができる。何度登っても飽きないのか、自分でもわからない。ただ、遠くの山に行くのが面倒なので、無計画でも登れるこの山を毎度同じコースで登る。で、楽しいのか?と訊かれれば、私はなんと答えたらいいかわからない。ただ、登って来て家に帰ってから登ったことを後悔したことは一度もない。時間の無駄と思ったこともない。ひとりで登って何が楽しいの?と言われても、何が楽しいかは上手く説明できないが、つまらなくはない。この高草山は、山頂近くまで車で登ることができ、地元の若いカップルなどは、夜景を見に車で登るらしい。私はそういうロマンチックなことはしたことはない。昼間ひとりで、下から登山道を登るのだ。そして、毎年、夏山に向け体力をつける。夏山とは、私の住んでいる静岡県の北にある日本アルプスの夏山登山のことだ。私は宿泊が必要なソロ登山は、まだ、日本アルプス登山しかしたことがない。高校生の頃、少し山岳部に属していたことがあり、その頃は南アルプス以外では静岡を流れる安倍川の奥の山や、伊豆の天城山、それから閉山後の富士山、そのくらいしか行ったことはなく、特に十年前、三十四歳でソロ登山を始めてからは、専ら日本アルプスだ。これからは他の地方の山も登ってみようかと思う。今年は北アルプスの剱岳に登って来た。そのときは今思えば無謀な計画で、室堂に前泊し、深夜二時四十分に出発して、直下の剣山荘に大きな荷物をデポして、そのまま剱岳にアタックした。登頂し、剣山荘まで降りてきたのが、十二時だった。休憩などを除けば、約九時間歩いたことになる。普段、高草山で登り一時間というトレーニングしかしていない私にはやはり無謀なのだ。しかし、そういうビッグイベントという楽しみがあるから日頃の地味な高草山登山に飽きないのだとも言える。そういうビッグイベントの際、よく見かけるのが、「先週はジャンダルムに登りました。あ、その前の週は後ろ立山を縦走しました」などと吹聴し、いかにも自分は登山しまくっているぞ、おまえらとは違うぞ、みたいな自慢屋がいる。学生ならばそのくらいの時間は作れようが、いい大人がそんなに登山してどうする?と私は思う。仕事は何をしているのだ?しかし、登山とは不思議なもので、下山するとまた次の登山を自動的に考え出すのだ。毎週登りたい、という思いはわかる。私もフリーランスで、休みが自由に取れる身分ならばやってみたいと思う。しかし、現実はそれを許してくれない。滅多に連休を作れない仕事をしている。だから、毎年、夏だけは高峰に登るぞ、と思い、それを楽しみに高草山に登るのだ。では、高草山はその「本番」のための練習に過ぎないのか?いや、そうではあるまい。私は高草山に登るときも、ビッグイベント時同様、カメラを持って行く。そして、いい景色と思う所は写真に収める。そのとき思うのは季節の移り変わりだ。高草山には他の山同様四季がある。その変化を楽しむことができる。春、夏、秋、冬。ここ静岡県中部では冬でも雪は積もらない。従って、高草山にはアイゼンなど必要ない。冬の景色としてはあまり季節感があるとは言えないが、それでも落葉や山頂から見える、雪のかぶった富士山を見て冬を感じることができる。静岡県民だから富士山など見飽きているだろう、と思う人もいるかもしれないが、あの山を見飽きる日本人はいない。それに私の住む藤枝からはこの高草山が邪魔して富士山が見えない。この山頂に来てようやく見ることができるのだ。そのため私の地元では、富士山よりも高草山こそ、故郷を見守る山、シンボルの山なのだ。ところで、この山には昔山頂に一際目立つ電波塔が建っていた。私は幼い頃からその塔を高草山の一部として、シンボルの消失点として、いつもそこにある存在として眺めていた。それが数年前にいつのまにかなくなっていた。車を運転中にそれに気づいた私は、「あれ?高草山に塔がない!」とショックを受けたことを覚えている。今でも心象風景には高草山の頂上には鉄塔があるが、現実の高草山を見るとそれはない。しかし、それでも私がこの山に登らなくなる理由はない。この山の私の登る登山道は、大変な急登であり、そのためか、途中から振り返れば、焼津の平野が見下ろせる。自分がどれだけ登って来たかを常に確認できるところがいい。

焼津の町が見下ろせる

南には駿河湾も見える。空気の澄んだ日にはその海の向こうに伊豆半島をくっきり見ることができる。そういう、爽快な景色もこの山の魅力だと思う。今は秋であるが、夏には夏の良さがあり、春には春の良さがあった。冬には上記したような良さがある。もちろんその四季の移ろう様子は、間に過程がありその過程を楽しむのが四季の移り変わりを楽しむことである。そして、今日も秋の高草山を楽しんできた。十月である。まだ、紅葉が真価を発揮する時期ではなかった。まだまだ、秋の深まりがその錦を拵えるには時間があった。

私は山頂で東に雪の薄化粧をした富士山を見ながら、湯を沸かし、カップラーメンを作った。湯を沸かすには時間がかかる。カップラーメンに湯を注いでからも時間がかかる。その時間、私はおにぎりを食べるのであるが、食べるだけでなく景色を楽しむ時間である。カップラーメンにも楽しみがあり、その日の気分によって品を変える。今日は醤油ラーメンにした。汗で濡れた服が十月の風で冷やされたところへ温かいラーメンが腹の中に入っていく。この快楽はなかなかのものだ。山頂には他に登山客はいなかった。しかし、私の中には人がいた。私の中にはこういうとき雄弁に語る自分がいる。そこには哲学的営為に似たようなものさえある。この文章も歩きながら考えたことの所産である。私は山を歩きながらものを考える。だから、孤独を感じない。下界には、家族も、少ないがなら友達も、仕事仲間もいるのだ。孤独とひとりは違うとすれば、孤独は絶望的なもので、ひとりというのは誰からも思考を邪魔されない自由な存在になれる時間なのだ。おそらく私が山に行くのはその自由な存在になるためかもしれない。いつも同じ山に登っていてもその登山中の自由は常に私の心を捉えて放さない魅力を煌々と放っている。

遠くに伊豆半島が見える

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