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外出恐怖とセルフケアの上書き

用事があったり、やりたいことがあったりすると、
当然自分のコンフォートゾーンから出て活動することになる。
でも、この1年間治療をメインに考えて、自宅や自宅から20キロ以内をベースに、できるセルフケアや活動をスローペース、マイペース、低刺激で生活してきたので、「外出」が苦手になってしまった。

だからお出かけするととにかく、とても疲れる。消耗する。
脳の芯から疲れて思考回路がメルトダウンするし、悪寒がしたり、体も頭もどうしようもなくなる。
20代は一処にとまっているのが苦手で旅人のように
各地を転々としているほうが楽だったのに…
まるで人が変わったかのように、お家が一番になっている今の私。

疲れや消耗からいつもスイッチが入る
過食嘔吐の欲求。
疲れた時に甘いものが食べたくなるのは
普通の人でも同じようだとは思うけど、過食嘔吐依存性者の私の場合は、その「食べたい」がとてつもなく強い欲求で、普通のひとならチョコレートを2.3個食べてホッとして、それでおしまいかもしれないけど、私の場合は、一口食べたら最後。確実に止まらなくなる。 食べるごとに 埋まらない穴ができていく感じで、食べれば食べるほど「足りなくなる」感覚に囚われる。
それも自分でコントロールできないくらいの強力な囚われ。

お腹は妊婦のように、背中まで膨れるくらい食べ物を口に入れ込み続けてしまう。
息ができないくらい詰め込む。
そして、それを全て吐かないといられない。
吐くのがどれだけ、苦しくても…
でも、これも私にとってはセルフケア。
危険なセルフケア。
私にはトラウマがあって、太るのが恐怖。
一回吐いて、さらに水を飲んで吐いて、完全に固形物が吐瀉物になくなったのを確認するまで吐ききる。体の中に食べ物が溜まっているんじゃないかと思うと気持ち悪くて、怖くて仕方がない。どうしてこんなことをしてしまうのかわからない。でも、自分が狂ってるのは、わかる。
そのあたりのことを、精神医学用語では「調節障害」というそう。バランスをとるのが難しく、危ない記憶を行動化しやすく、無意識に再現しようとしてしまう。
危険な方法を使ってしまう場合には、自分を責めるよりどうしてその方法がやめにくいのかを考えたほうがといとのこと。

やめられない理由として
・安全だと退屈に感じてしまう
・刺激的であり、手っ取り早い
・やりすぎてしまう性格上、止めにくい
・危険な人間関係にむすびついていて、その人に魅力を感じたり脅されている
・自分を破壊したい、自分なんてどうでもいい
・罪悪感があって自分を追い詰めたくなる
・楽しむ経験が少なく、楽しむことが苦手で苦労している方が落ち着く

などいくつか項目が上がってくる。その項目が多いほど、その危ないセルフケアが役立っている部分が大きいので、無理して止めるより、それ以外の少しでも楽しめることやリラックスできることがあれば、できるだけそっちを見てそれを少しずつ増やしていくほうが良いとのことだ。
自分を責めるより、こういうところがある自分を丸ごと♡で囲ってあげられたり、こういうところがあるとわかっていることが大事。

こういう方法は「ハームリダクションアプローチ」といい、問題にならない程度に緩やかに使用を続けながら社会性を取り戻していくやり方ということを、施設で強制的に症状を使わない生活を諦めて田舎に戻ってから読んだ、おおたわ史絵さん著「母を捨てるということ」で知った。依存症当事者だから、読んでいて辛い気持ちもあったけれども、私と生活してくれる家族の気持ちを知りたいという気持ちから読ませていただいた。


こちらの著書です


何かに依存するのは、生きづらさや苦しさを埋め合わせるための自己治療(セルフメディケーション)なのだというのが、近年の依存症の医学の解明という言葉を読んだとき、少しだけ救われたような気楽な気持ちがした。けれども完全に楽になったわけではなかった。私は症状が苦しくて仕方がなかったからだ。

外出恐怖。
昔の私は、そうではなかった
なんでこんなに弱くなっちゃったんだろうかと情けなくなる。
いや、そうではなくて今までは過食嘔吐のドーピングをして生きてきたから、そういう体感に気がつかなかったのかもしれない。
本当は、疲れてボロボロなのに
私は大丈夫です、平気ですって。
そう・・・
私はそうやって正体を隠して生きてきた
素の自分をさらけ出す恐ろしさに、マスクをかけて上部を取り繕うようにして生きてきた
それは自分のためでもあったけれど、田舎特有の密な人間関係の中で親の顔に泥を塗るようなことはしちゃいけないと思ってきたからだ。生きているのが、辛くて仕方なかった。
もう、何も食べたくない
吐くからという、治りたい気持ちと
どうせ吐くから、何食べてもいいという
摂食障害の戦いに疲れ果てたときのどうでもよくなる気持ち
その板挟みの生活に平安がもたらされるのはいつなのか
障害だから、治らない…から一生?
もう嫌だ
死にたい
そういつも感じながら20年の歳月が経った。主治医からは生き方そのものが、摂食障害そのものだと…もう耳が腐るほど聞いてる。
まともな生活や、落ち着いた心で生きたい。
外出や旅だって楽しみたい。
生きる喜びを感じたい。
見たことがない素敵な光景を目にしたい。
自分の外へいくことで、自分が心地よく変わっていけるような人とも出会いたい。

そんな風に感じたから、Kさんに教わった「自分への御札」をまた紙に書いて部屋中に貼ってみようと思う。
「私は自分が楽しむことを許可します」
「自分が疲れたら素直に休む時間と方法をどこにいても使っていと許可します」
こんな感じだろうか。
自分の取説の上書き作業は続く。
それも、今度は楽しみながら続けたい。

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