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白鳥静香先生の言葉より 172 心の自然 お茶室にて

白鳥静香先生の言葉を紹介します。









白鳥静香先生の言葉より 172 心の自然 お茶室にて









静かにお茶室に座っていると、


心が、私でも、客(他者)でもなく、

両者を包む茶室そのものに、

いえ、茶室を包む、自然に、

風の音や、鳥の声そのものになってしまいます。




茶道が単なるお茶を点てる技術や、

マナーではなく、「道」といわれるのはそのためなのでしょう。









お茶室に座っていると、

心は本当は、一個の点ではなく、ひとつの面、

いえ、ひとつの空間のようなもので、


他者と対立するようなものではなく、

他者を包むようなものなのだと感じます。






そのように心がほかの人を排斥するのではなく、

面となり、空間となり、ほかの人を包むようになったとき、


これを愛というのかもしれないと私は思うのです。








それは、意志や努力によってなされるものではなく、

とても自然なもの、

心の本当の自然なのではないでしょうか?




                             










2017年04月04日

政府の道徳の教科化について 複数の道徳 神々の争い



政府が道徳の教科化を進めていることについて






私は道徳の教科化には必ずしも反対ではありません。

ただ道徳の教科化にあたって、注意しなくてはならないところが
いくつかあると思うのです。




その重要なひとつは、道徳はひとつではない。ということです。








道徳はひとつではありません。




道徳はひとつではなく、

ある人の道徳と、

ほかのある人の道徳が対立することがあります。



社会学者のマックス・ウェーバーはそのことを、

「神々の争い」と呼びました。




そして、ある人の道徳と、ほかのある人の道徳とが対立して
相容れないとしても、


必ずしも、どちらかが正しく、

どちらかが間違っているというわけではないのです。








たとえば、

自分の親と、よその子どもが溺れていたとして、


まず、自分の家族を助けるという道徳もあれば、

他人でも、まず子どもを助けるという道徳もあります。


そのどちらもが間違っているわけではありません。

どちらも道徳的な行為です。


まず家族を大切にするのも道徳なら、
他人でも、まず、子どもを大切にするというのも道徳なのです。

どちらを優先にするべきかということに答えは出ないでしょう。



その答えの出ない問いの前で答えが出ないまま、

ただその瞬間、その瞬間、

自分自身が自分自身の責任で決断してゆくしかないのです。








また、政府はたしか、

友人を大切にするということを自明の道徳のように言っていた気がしますが、



たとえば、

ある芸術家が友人よりも、
自分の芸術の腕を磨くことを大切にしたとします。

その芸術家は友人を大切にできなかったかもしれませんが、
作品によって人類に大きな貢献をしているかもしれません。


芸術家にも寿命があり、無限の時間を持っているわけでは
ない以上、

友人か?芸術か?

を選ばなければならないときもあるでしょう。

そのとき、芸術家が、友人よりも芸術を大切にしたからといって


その芸術家が非道徳であるとか、間違いであるとは誰もいえないはずです。










道徳はけしてひとつではないし、

道徳と道徳とは対立することもあります。



そしてある道徳と、別の道徳が対立したからといって、

そのどちらかが正しく、どちらかが間違っているとはいえない場合も
たくさんあるのです。




それでも、

答えの出ないその問いの前で、

自分の責任でどちらかを決断して行動しなくてはならない
瞬間がくるのが道徳です。











政府は、とくに、政治家の人たちは、

小中学校での道徳の教科化にあたってそのことを充分に
理解しているでしょうか?






私は、道徳の教科化には必ずしも反対ではありません。


しかし、そのことをよく考えずに道徳を教科化した場合、

それは結局、人々の思考力を奪ってしまう結果になってしまう
であろうということを

主張したいと思うのです。








                     2017年3月31日  白鳥静香



この記事は2017年3月31日に書かれたものですが、今日、2017年4月4日にアップさせていただきました。  アトリエ・スワン

2017年04月03日

文科省の道徳教育の方針について 多様であるということ



小中学校での、道徳の教科化、点数化ということがニュースで言われて
いました。





人間がひとりで生きて行くことのできない生物である以上、
人間には確かに道徳は必要なものなのですが、

文科省指導のもとの学校教育でそれをするとなると、そこにとても難しい
問題があるように思います。





道徳の教科化はともかく、

点数化には、

思想や良心の自由を保証した、憲法に反する可能性があるということがひとつ。







それから、もっとプラグマティック(実際的、実用的)に考えても、

道徳の点数化ということには、もうひとつ心配なことがあります。




それは、道徳教育の点数化によって、

人々の思考の多様性が確保できなくなり、


そのことが、その社会の停滞や衰退につながる可能性があるのではないか?
ということです。








社会科学的な問題と、生物学的問題とを比較するのは
学問的に適切ではないかもしれませんが、

ひとつのたとえとして、あえて、たとえてみたいのですが




よく知られているように、

地球環境は何度も激変しています。

あるときは、赤道付近まで氷におおわれ、地球は全球凍結したともいわれて
います。
(スノーボールアース説)


地球環境が何度も激変して、

あらゆる生物が絶滅しているにも関わらず、

それでも地球に生きる生命自体が滅びなかったのには、


生命に多様性が確保されていたということもまた大きな要因のひとつとして
あるでしょう。





環境は必ず変化します。

自然環境だけではなく、社会的な環境もまた変化します。


そのとき、私たちの思考が多様であることが、

私たちが(社会的に)生き残る上でとても大切なこととなってくるのではないで
しょうか?










現代、グローバルな資本主義において社会の変化のスピードは
早くなっています。




道徳教育における道徳の点数化ということは、


憲法の問題や、人権の問題、

あるいは人間の自由の問題としても考えなくてはいけませんが、



もうひとつ、それが、

人々の思考を画一的にし、環境の変化に対して人間を弱くしてしまうの
ではないか?

ということもあわせて、

もう一度、道徳教育ということを考えてゆく必要があるのではないでしょうか?











                      2017年3月31日  白鳥静香



この記事は2017年3月31日に書かれたものですが、
今日、2017年4月3日にアップさせていただきました。 アトリエ・スワン



                       






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