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きのうの私じゃない

その日、ウサギはいつものように、カフェのテラス席で本を広げているカメを見つけた。ウサギは彼の隣の席の椅子をひくと、「カメくん、こんにちは!」と元気よく声をかけた。

しかし、本から目を上げたカメはウサギを見つめ、何かを理解できないかのように首を傾げていた。「誰? ですか?…」そんな返事に、ウサギは少し困惑した。「なに馬鹿なこと言っているの。どこからどう見ても私でしょ?」と彼女は不安げに訴えた。

「私は貴女のことなど知りません。もし貴女が私を知っていたとしても、私は以前の私ではありません。腸の細胞の寿命は数日、皮膚の細胞は約一ヶ月で新しくなるのですから」
カメは淡々と言葉を並べた。

彼の言葉を聞いてウサギは少し考え込んだ。そしてふっと明るく笑った。「そんな話し方をするのはカメくんしかいないわよ。また新しい物語の主人公の気持ちでも考えているの?」彼女の心は一瞬で軽くなった。

それでもカメは首を横に振った。「いいえ、私は物語など書いていません」 その言葉にウサギの心は重く沈んだ。涙が滲むのを感じながら席を立つと、ふらふらと歩き始めた。

すると、ウサギは力の入らない足を踏み外し倒れそうになった。その瞬間、ウサギは強い腕に支えられた。目を開けるとカメが笑っていた。「ハッピーエイプリールフール」と。 その言葉にウサギは驚き、そして徐々に事の真相を理解した。

「ちょっと!それはないんじゃない?」と言いながら、まだ泣き顔のウサギは、小さなこぶしでカメを軽くたたいた。

「ごめんごめん。びっくりさせたかっただけで、そんなに悲しむとは思わなかった」平謝りするカメの言葉に、二人の間に氷のように存在していた距離は、いとも簡単にふわりと消え去った。

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