鶏肉が出来る瞬間。

おはよう。

都会に暮らしていると、食べ物の本当の姿を知らなかったりする。または、本来の姿は知ってても、私たちが手にする品物になるまでの行程を知らなかったりするものだ。

その一つに、鶏肉があるだろう。

私は幼少期に、鶏がスーパーで売られているモモ肉やらそれらの類に変わる瞬間を見たことがある。それは必然ではなく、偶然目にした。

ところは台湾。
当時、学校の長期休暇のいずれかで、親の帰省に便乗していた。
中国語を諦め、英語もまだ片言だった私は、私の趣味趣向と異なる母親の後ろにくっつくか、もしくはお爺ちゃんに付き添ってもらって誰でも入れる小学校の校庭で縄跳びをするくらいしか外出する術はなかった。
ただ、異国の数百とあるTV番組に興味も持てず、英検準2級の勉強が捗っていたことは真実であった。

当時、母方の親戚たちは市場で買い物することが主流だった。
まだまだ、今のようにコンビニなんて無かったし(今となっては、ファミリーマートやセブンイレブンが所狭しとあるけれども)道路も舗装されていない。バスなんか乗った暁には、酔う余裕がないくらい粗暴な運転だった。(そもそも、バス停も車道のど真ん中に設けられているので、バス停に行くのも必死である。)運転だけは、台湾人の人柄の良さは出ないんだなと常々思っていた。

台湾の市場は活気がある。今では、綺麗に整備された市場がどの街にも点在しているが、当時の私の記憶ではテントに品を並べている状態の"お店"が群となっている状態の市場もあった。
そんな市場が私は大好きだった。今でも、海外に飛ぶ時は、その国の市場に必ず出向く。
市場というのは、その辺りに住む人たちの生活を垣間見ることができる。それこそ、その国の"今"を見ることができたりするし、雰囲気も味わえる。

親戚の叔母に連れられて、台南の市場にやってきた。
親戚の叔父は、台南で開業医をしており、正直お金に困っていない。小さい私たち姉妹に、露店のブティックでおしゃれなお揃いのワンピースを買ってくれるくらいに。だが、そんな人たちも市場で買い物する。そういうところが好きだ。
何やら、叔母がお店の人と話し込んでいる。手には、鶏の肉片が入ったビニール袋を持っている。なるほど、ここは鶏肉屋か。
そう思ってお店のおばさんを見ると、その後下に数匹の鶏が居た。
当時、私にとっては鶏を見るのもそこそこ珍しいことではあったが、彼らが入っているケースが何やら大きいことに気づいた。そして、ケースの別の出口から、精肉された鶏肉が出てきて、話し込んでいたお店のおばさんはむんずとそれを売り物用に整理する。

同性のくせに、たいして仲良しでもないB型姉妹の姉と私の距離が、物理的に気持ち縮まった。
そうか。鶏肉ってこうやってできるのか。

ひゅんっと背筋が凍ったのは、その一瞬だけで、そこそこ知的好奇心のある私は、なるほどなと新たな知識を小さな脳の引き出しにしまったものだ。

今となっては、自粛モードの中で、飲み仲間の友人と「自粛モードの中で、どうやったら焼き鳥にありつけるか」という議論をしている。
鶏さんに感謝しつつ、今日も美味しくいただきます。

今日もいってらっしゃい
そして、おかえりなさい

文章にあった絵を書いてくださる方、募集していたり。していなかったり。