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【感想80】正欲

朝から『何者』を読んで、この映画を見に行ってと午前一杯は朝井リョウを浴びた日になった。

他人に勧めやすい ★★★★★
個人的に好きか  ★★★☆☆

めちゃくちゃわかりやすいというか、原作を極力マイルドにした感じ。
元々が陰気臭い問いかけ方なのでこれぐらいにしないと受け入れやすいというのはあるけれど、エンターテイメントとして昇華できる範疇に収まってる。
結構大事な要素が欠けているのはまあそうなんだけれど、それも致し方なしとしか言えない。それぐらい曲者なので。

原作とこの映画の立ち位置を汚い例え方をすると、初めて二郎系に行く友達には直系に連れて行くよりは千里眼とかの店員さんが優し目なインスパイア系に連れて行った方がわかりやすいだろうしいいよね、みたいな話。

『正欲』というお話の感想は上で言ってるので省略。

映画では佳道・啓喜の二人を対立させて、そこを中心に添えることで2時間の尺に収め切っている。
八重子や大也といった大学での多様性アピールは水に対する欲求をよりわかりやすくさせるための要素に留めているので、終盤に出てくる2人の意見の投げ合いとかはなし。

この映画でも感じ取れるのが、朝井リョウ作品というより朝井リョウ自身が感じていそうな「自分の周りが全てだと思っている人」に対する感情。
例えば『桐島、部活やめるってよ』ではたった一人部活をやめるとなっただけで大きく周囲の環境が変化していった菊池達に対して、映画が好きという芯を持っていて何も周囲の環境が変わらない前田という対比。
ここでは啓喜が一手に引き受けている、社会の敷いたレールから逸脱することへの畏怖が対象になっている。視野が狭く、自分の信じる正しさ以外の存在を悪と言い切れるあの窮屈な感じを稲垣吾郎が演じてより強烈な嫌悪感を持たせやすい人物像になっている。
原作だと啓喜視点でのモノローグで実感はしづらかった息子との会話での温度感が、スクリーンを通して見るとすぐに連想できる面倒な頑固父親そのものだったし、仕草や言葉選びから伝わってくる苛立ちなんかも見てるこっちがしんどくなるぐらい息苦しい空気が画面越しにも漏れ出ていた。

前半は夏月についてはただひたすらに孤独さを感じている場面を描いていて、結婚式前にゴタゴタしていた事件はバッサリカットされた分より力を入れて作られていたと思う。
交わりはしないけれど視線を向け合っていたり異様な執着を見せるようなところも、どれだけ疎外感を感じて誰かと繋がって理解されたいか、生きていいと言われたいのかをじっくり見せるって意味ではすごく丁寧に積み重ねるための描写として機能していた。
こういったところからも映画ではマイノリティ側の心理を深堀していって、観客には夏月や佳道、大也の側に立ってもらいやすいように誘導しているところはあると思う。その方が演者目当てで来た初見の人にも主旨を伝えやすくなるし良い改変?というよりは舗装っていう感じはした。

上京後の夏月と啓喜がたまたま道端であって少しだけ会話をするシーンが映画では挿し込まれていて、そこが個人的にはこの映画の中で一番好きだし響いたところになる。
普通の主婦と会話していると思ってはいるものの、やっと確かな繋がりを得られた夏月が「惚気話を聞かせて、すみません」と赤裸々な気持ちを紡ぎ続けられたのが鬱屈さを見せ続けた前半に対する回答にもなっているし、確かだと思ってた繋がりを失った啓喜が呆気にとられる姿もいろんな捉え方ができて面白い。
実は原作ではうっすらと語られるレベルだった寺井一家の末路は映画ではある程度語られているので、原作読者はそこを加味したうえでラストシーンを噛み締めるのも悪くないと思う。そういう意味では稲垣吾郎と新垣結衣のツートップの映画っていうのは間違いないと思う。


「多様性」ていう安いパッケージじゃ役不足な、もっと普遍的な、繋がることへの求心っていうテーマに対する回答としてあのラストシーンになるのは至極真っ当だなとはなる。本来の最終章はもっと意地悪い奴なので。
結構大事なアンサーになり得るフレーズは省略されてしまってはいるけれど、観客の心に何かしら残すって部分では十分なメッセージ性は持ってる。

たまたま元Twitterで見た、「ひとり旅行は行けると思ってたけど、SNSで何かを発信すること前提での”行ける”だから結局ひとりで旅行にいけるってことじゃないんだ」ていうのはかなり核心的だなと思ってる。
一人でいられるという人も、結局はSNSという確かに誰かがいる空間の中で誰かに発信して繋がりを無意識に享受できている事を自覚していないだけかもなんだって。それすらもできなかった人たちの話って置き換えられるかもしれない。

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