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鮎と一筋の赤い線

 川を渡ろうかと思っていた。対岸を眺めやるとなんかいい感じの景色が見えるはずと信じているからだ。
 渡るためには川がどういう状態なのかを知らなければならない。色鮮やかな婚姻色を纏ったオイカワがヒラヒラと泳いでいるような小川なのか、それとも灰色を纏りどっしりと水中を泳ぐノゴイがいるような滑らかな止水域なのか。なんにせよ、穏やかな様子であると渡りやすい気がするのでそちらのほうがいい。
 苔がこびりついた岩で手や足を滑らせないよう気を使いながら、えいやこらやと掛け声を漏らしよじ登ってみると、川の様子を確認することが出来た。さて、どういう緩やかな川だろうかと眺めてみると、とてつもない激流だった。山の頂から際限ない水を永遠とブチまけているほどに早い流れ。此れは渡れそうにない、一瞥しただけで理解できる激流であった。
 見ただけで激流だと理解できる様子でも、どれほど早いものなのかと好奇心が刺激される。試しに流れに逆らうよう手を水中に突っ込んでみようとしたところ、水面付近で移動している高速の水滴が掌を貫通した。それが上流から夥しい水量とともに無限に流れ込んでくるので、あっという間に掌が蜂の巣になった。水滴が貫通する度に湧き出てくる一筋の血飛沫。激烈に痛かったが、白く濁る川と鮮血がいい感じのコントラスト生み出しており退廃的で美しい光景が広がっていた。
 耽美な様子に見惚れる時間はそう長くはなかった。時間が経つ毎に頭の中の激痛がだんだんと支配領域を広げていき我慢ができなくなった。痛みを紛らわすために一度叫んでみたが、痛みが引くことは全く許されなかったので叫ぶことを辞めて呻くことにした。掌を見ると所々白いものが露出していた。これでは自らを慰めることすら出来ないだろう。
 痛みに支配される頭の中で川を渡ることはやめようと考えていた。川を渡ること、それは即ち強烈な痛みを伴うこと。今の行為ではっきりと理解することができる。こんな激痛を受け入れないといけない川渡りは自分には向いていない。自分に向いているのはもっとちろちろと流れる小川をぽーんと飛び越えるような痛みを伴うこと無い川渡りが似合っている。
 だが、もう飽いていた。今いる岸には飽いていた。岸にあることはなるたけやった、やり尽くした。今はやることがなさすぎて、川を渡ろうか渡らないかうじうじもぞもぞと虫が這うような気色悪い動きをしながらまごつくしかやることがなくなっていた。しかし、本日になりどうするべきか決心するべく川の様子を確認しようと思い立った。その結果が現状である。未だ、血は留まること無く流れている。
 正直な話、容易でないことは想像していた。蛮勇で無謀な行為になるのではないかと想像していた。それでいても此れほどの難しいものであるとは予想だにしていなかった。もう帰ろう、諦めよう。自分は今いる岸でイモムシのように這いながら対岸を羨む姿がお似合いだと思い込むことにした。そうでもしなければ、自身の心奥底に鎮座している何かが崩壊しそうな気分になったからだ。
 川を渡らない決心はしたものの、岩をよじ登る程の苦労をかけた川に未練がないわけではなかった。岩から降りる前に川へ未練がましい視線を投げてみると、動く水流の中に一つの影が見えた。あれは何であろうかと、目を凝らし観察してみると影はゆらゆらと揺れて、川の中心部に行ったかと思えば、水中深く潜ったりして、激流の中を自由自在に動いていた。痛さのあまり幻影が見えているのかと考えたが、影は勢いよく水面近くに移動すると、そのまま空中に向かって飛び上がった。
 見事な鮎であった。灰緑色に覆われた流線型のボディが日を跳ね返し光っていた。鮎はそのまま水面に顔を合わせてまた川に着水。その場でゆらゆらと余裕のある踊りを誰となく見せつけた後、どこかへと消えていった。
 羨ましいと思った。激流の中をものともせず余裕の顔で遊泳し、尚且つひらひらと踊ることもできる。ああいう風に有りたかったと思った、なりたかったと思った。今でもああいう風になれるのでは無いかとも考えた。だが、思い出した。もう川を渡ることは諦めたことを。ずっとこの岸で虫のように這い続けることを。
 一つ考えが思い浮かんだ。あの鮎を食べれば同じことができようになるのではないかと。鮎を食べることで同じ能力を身につけることが出来、激流をものともしない身体に変化できるのではないかと。試してみる勝ちはあると思った。現実的な案ではだろうと頭の何処かで鳴ったような気がしたが、それほどに岸でにいることに嫌気が指していたのだった。
 再度、影が揺れた。しかもその影は思考を読んでいるが如く、岸に近づいてきた。そらこれを逃すわけにはと、切り裂かれていない方の手を影へと伸ばした。これを捕まえる事ができればこの岸から逃れる事ができる、対岸に渡れる可能性すら有することができるという考えが頭の中を支配していた。
 しかし、あなやもう少しというところで影はひらりと手を躱した。それどころか、ゆらゆらと余裕の踊りを再度見せつけてそのまま見えない所へと去っていった。やはりだめであったと嘆息を漏らし身体を起こすと、岩にこびりついた苔を足が踏んでおり、そのまま足を滑らせて激流の中へと真っ逆さまに転落した。
 高速の水流が全身を覆い、そのまま全身から肉を剥ぐ行為に取り掛かった。痛覚が脳を駆け巡る間もなくそのまま生命は絶たれた。
 川面には一筋の赤い線だけが残った。


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