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大衆中華 足立屋

 最近、近所に『大衆中華 足立屋』という店ができていた。名前から察するに沖縄の大衆酒場界を支配している足立屋の系列店であろう。
 この足立屋というのは、飲酒運転ワースト1位の沖縄県に本土の大衆酒場文化という、さらに酒の依存度を加速させんが如く彗星のように現れた救世主のことである。これまた近所にある『大衆劇場 足立屋』では、千円を払えば当時沖縄では珍しかったモツ煮込みとそれなりの酒三杯を舐めることができるが故、大変に重宝している店であった。
 その足立屋が中華料理屋をやっているのだ。しかも大衆中華という、金のないも節度もない一般大衆、つまり僕のような人間に寄り添う形で中華を提供するというのだ。これこそが僥倖とも言えるし、貧乏人の行幸とも言える。早速、馬を拵えて馳せ参じ候。おほほほ。
 つか、中華なのに大衆をつけるってなんなんだろうか。中華料理というのはそもそも大衆のためにある料理ではないのだろうか。中国の言葉で「中国家常菜」という言葉があるのだが、これは読んで予想できる如く「中国の家庭料理」という意味のこと。見た目も綺麗に整列されており自立語や熟字としても扱うことができるだろう。しかし、「中国の高級料理」だとどうだろうか。これを中国の言葉で表すと「中国高级美食」となる。何というのだろうか、読んだ感じで一発で何を書いているか理解できる様相をしているのだが、中国語を昨日覚えましたみたいなツギハギ感が浮遊している。これでは自立語や熟字と成るには程遠い、せいぜい当て字になるといった具合だろう。このことから中華料理というのは一般大衆に浸透していると考えることができるだろう。字や言葉として成立しているかどうか、言葉というのは文化に直結する要素であるからして、ツギハギ感が拭えない言葉に文化を担うことなどは─とか考えていると、店の前に到着していた。近いようで遠いような距離だった。
 店に入り品書きに目を落とすと、所狭しと中華料理の名前が並んでいる。回鍋肉に辣子鶏といった普段目にする料理もあれば、清蒸大闸蟹や古老肉といった一見しただけではなんの料理かわからないものまでが並んでいた。一つ一つの料理名を読み進めていく度に、ふつふつと心が踊っていくのがわかった。頭の中では聞いたこともない中国民謡の茉莉花が流れ始めていた。
 右でも述べたが、此処『大衆中華 足立屋』は沖縄に大衆酒場文化を持ち込んだ救世主の系列店。千円を支払えばつまみと酒三杯を舐めることができるシステムがここにも存在していた。迷う必要はなかった。この千円システムと何を食うかで頭の中は一杯になり、鳴り響いていた茉莉花は盛り上がりの佳境に入り、多分鳴響ているであろう馬頭琴と太鼓がばんぼことオーバーラップし始めていた。
 結局、頼むのは油淋鶏に決めた。揚げた鶏肉に甘酸っぱいタレをかけた酒と白米のために生まれてきた料理である。して、この油淋鶏であるが本場中国では鶏肉は揚げることなく、茹でるらしい。そのお陰か、かなりさっぱりとした味わいで味の濃い紹興酒と上手く融合するらしい。その話を聞いて以来、僕はその本場油淋鶏が食べたくてたまらない気持ちが溢れていた。本場のオーラを纏った中華屋を見つけては油淋鶏を頼み、揚げた鳥を食うという無為の日々を過ごしていたのだが、その日々も今日で別れを告げることになるだろう。はは、だって見てご覧なさいここの厨房を。料理人は今や鶏肉を蒸し器に放り蒸し鶏を作らんとしているではないか。ははは、今回なかしは本場の気分を味わえるに違いありあせんよ。
 少し待つと油淋鶏が届いた。すでに紹興酒は三杯目に突入しようとしていたがそんな些細なことは気にはしない、だてほら御覧なさい、この油淋鶏はめちゃくちゃに油で揚げられて立派な衣を纏っていた。これでもというぐらいに葱を盛られて実に美味そうだった。隣に座っていた人物にも料理がやってきた。棒々鶏であった。実に美味そうだった。
 三杯目に頼んだ紹興酒が入ったグラスは結露まみれになり、中身は既に底を突いていた。


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