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ジェルソミ〜ナが聴こえてくる。

去年の夏に買ったまま読まずにすごした文庫本を先月やっと読んだ。
「チョコリエッタ」
大島真寿美 著

これは同名の映画の原作で、
何故買ったのかと言うと映画にお祖父ちゃん役で中村敦夫さんが出ているのが気になっていたから、と、
若き菅田将暉君が出ているから。
(ちなみに映画はまだ見ていない。)
さらに何やら菅田君が、胸板に巻きつけた鎖を自力でぶっち切る大道芸人ザンパノみたいな扮装をしているスチールも発見して、これはなんだ?
…っていうか絶対これはイタリア映画「道」のザンパノじゃないの。

読み始めると「チョコリエッタ」というタイトルも、フェデリコ・フェリーニ監督「道」の主演女優ジュリエッタ・マシーナからきていた。
ジュリエッタ・マシーナのように目がくりくりして可愛いからと子犬がジュリエッタと名づけられ、
その子犬と姉妹のように育った主人公・知世子がチョコリエッタと呼ばれるようになる。
ともに彼女のお母さんがつけた呼び名だった。
そのチョコリエッタ(知世子)が小学生になる前に亡くなってしまうお母さんから聞いていた「フェリーニ」という名前が、美味しそうなお菓子なのか何モノなのかやっとわかったのは、彼女が高校で映研に入ってからだった。

「映画はなくならない。」
チョコリエッタは思う。

映画監督がこの世からいなくなっても、主演者があの世へ旅立っても、その映画が好きだったお母さんが居なくなっても。
そしてついには仲良し犬のジュリエッタまでが天国へ行ってしまっても。

映研の正宗先輩が撮ったチョコリエッタの止まったままの「時間」を、
人生の中のほんの一瞬の(でも本当はとても長くてしんどい)翳りにポーンと小さな光を当てて8ミリフィルムに焼き付けたような1本の作品として、チョコリエッタ自身が見届けたあとには、
また次の新しい一章が始まっていくような気がした。

8ミリじゃなくて正宗先輩はデジタルカメラだったけど。
「転校生」(大林宣彦監督)の一夫君は8ミリカメラでしたね、時代が…。


追記
「チョコリエッタ」を読んでいくうちに私は、
フェリーニやジュリエッタ・マシーナの名前が出て来るたびに、あのサーカスの綱渡りの青年が呼ぶ「ジェルソミ〜ナー」(ミ〜が高い)という声が聴こえてくるようで、「道」がまた見たくてしかたなかった。

あの映画は今、何回見ても名作だけれど、私はあれを高校生の時に近くの大学の学園祭でたまたま初見で3回も見た。
当時解散したばかりのグレープ(さだまさしと吉田政美のフォークデュオ)のラストコンサートのフィルム上映があるというので友達と見に行ったら、なんと「道」との2本立てだったのだ。
それでグレープ見たさに並んで、大教室で入れ替え無しをいい事に3回もセットで見た。
(なんかこの展開、デジャブだなと思ったら昔フォーリーブスの映画「急げ!若者」もそんな3回連続鑑賞だったので、その話はまたタイムリーな後日に。)

「道」はしょうがないので見よっか…みたいな気持ちで結局3回見たけれど、モノクロ映像の中でスパゲッティの白さが妙に焼き付いた。
何もタレがついていない素パゲッティが…。
粗野で貧しい大道芸人ザンパノと旅を続けるジェルソミーナが、旅の道中に飯盒みたいな鍋で茹でたスパゲッティをそのまま啜るシーンが、毎回そこはかとなく哀しいけれど何故か美味しそうだったのと、
小柄なジェルソミーナの憂い顔が目の大きな「おばさん」のようにしか見えなくて、大男のザンパノはとんでもなく荒くれで怖かった…
というのが3回連続で見た感想だった。高校2年の秋。

きっと心はグレープへと気もそぞろだったのだと思うけど、ラストシーンは3回見てもモノクロ画面が更に暗くなんて救い難い映画なんだとひどく滅入った気がする。
そのあとにグレープがあるからすぐにるんるんだったけれども。

それから何年かして、BSで何度か再会出来て本当によかった。あのままでは「道」は自分の中で救われないし、何も気づかないまま過ごすところだった。
やっぱり年は取るものだとつくづく思う(こればっかし)。
大人になってから見たジェルソミーナはやっぱり少しおばさんに思えたけれど(今なら自分の方が絶対年上)、
その吸い込まれそうな目や姿しぐさはやっぱり哀しくそして愛おしい。
なんならテーマ音楽のトランペットのメロディーを聴くだけで泣けてくる。

ザンパノにさえもその背負ったものの悲哀の大きさに絶望の先に、何とか光が見えることを願ってしまう。

自分が成長するまで映画が残っていて良かった。
このままずっと在り続けるのでしょうけれど。
気づけば、音楽はニーノ・ロータだったのですね。
近頃よくこの方の音楽に心が動く。
王道だわ…。