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生きていくのってむずかしいよね。

事あるごとに、つくづく思うのだけれど、生きていくのってむずかしいですよね。

ちょっと前に陸上競技のことを書いたのですが、毎日走ってばかりいた当時、私の口癖は「あー、死ぬ―。」だったと思います。

言葉の響きが本当に良くないですが、無酸素の極限状態から、倒れるようにしてゴールする瞬間は、いつだってこの言葉が口をついてこぼれていました。でも、それってやっぱり生きている実感の裏返しというか、生きていることの延長線上というか、「あー、死ぬ―。」は「あー、生きてるー。」と、ほぼ同義なんですよね、わたしにとって。
生と死は対義ではなく、同じラインに存在しているものなんだよなぁと、嫌いな長距離走のときは、よくそんなことを考えながら走っていたりもしました。

では、生きていくことのむずかしさって、なんでしょう。
これはわたし個人の感覚でしかありませんが、生きることをむずかしくするのは、死の存在ではなく、「無」の存在なのではないかと思っています。死と無は、似て非なるものだと、わたしは思っているのです。

無理、無駄、無気力、無人、無意味、無味、無臭、無機質・・・
こういう無の側面が、ほんとうに生きることをむずかしくしていると思っています。
「あー、死ぬ―。」よりも、「あー、もうすべて無くなれー。」というほうが、本当の意味で死を感じてしまいます。

そしてわたしたちは、そんな無を、必死になって、有に変えること、これを生きること、と呼んでいるのではないかと思ったりするわけです。

だから、それは、ものすごく大変なこと。途方もないこと。
無駄なことはあっていいし、無意味なことに時間を費やしてもいいけれど、それって結局、目先のそれではなくて、結果として有になることを見越しての、「無」であるわけで。「無」を「無」のままでいい、なんて世界ではないんですよね。
有るものを無くすことはとても簡単だけど、無いものを有るものに変えるって、ほんとうに知力も体力もいること。まさに錬金術のそれです。

かといって、人間はこの世の全てを有するほどの個体ではない。時には「無」を「無」として受け入れることも必要だったりする。

それだから、何を無くして、何を有して、何を有してその基準を設けて、何を無くしてそれを諦めるか。その繰り返し。

人生は選択の連続、とよくいうけれど、選べる選択肢が広がっているなら、それは豊かさでしかなくて、実際には「有無の連続」というほうが正しい気がします。

世界中のあらゆるものが電子化されて、あらゆることが「0」か「1」で構築されていく世界に、わたしは少しばかりの恐怖を感じていますが、そういう意味では、それこそが人生の真理なのではないかと、思ってしまうときもあります。

お昼のから揚げ定食だって、今日はもう無いって言われるし。
でも代わりに有ったカニクリームコロッケが予想より美味しかったりもするし。

ほんとうに、生きていくのってむずかしいですよね。






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