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違う分人に声をかけられた時、どうすべきなのか。

僕は分人主義が好きというか、この考え方に僕自身が当てはまると思っていて、例えば学校で生活する学生としての僕と、メディアを運営している僕ブログを書いている僕なんかは個人的には分人化してるんですね。

※詳しい分人についてはこのnoteとかわかりやすいです。

一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。
人によって態度がちがうのはあたりまえで、「どれが本当の自分だろうか?」と悩む必要はない。どれもこれも全部「自分」
他人や環境によって個性は変化するから、「本当の自分」は、どこかに探しにいって見つかるものでもない。


そこで、最近ちょっとあることをかくと、ありがたいことではあるんですが、学校のクラスメイトなんかにも僕が高専マガジンをやっていたりすることや、noteを書いていることを知ってくれていたり、読んでくれている人がいるんです。

で、「ブログ書いとるんやからもっとわかりやすい言葉で話せるやん。」とか、「メディアやっとるんやからこれくらい知っとかんと。」みたいなことを言われたりするんですよね。

これ自体が嫌なわけではなくて、ただそのクラスメイトに向けている分人とは違う分人に対して声をかけられているわけで、その時にどうすればいいかわからなくなっちゃうんです。


あとで考えると、あれは今接している分人と、noteを書いている分人の差が、どちらも見えている友人にとっては違和感であったり不思議だから発せられる言葉だろうなとは思うんですが、そうであっても、やはりどっちも自分なわけで、それを1つに統合する気もないので、どうにかうまいこと対応できるようにしたいなと思ったりしました。

ただ、これって、分人をどちらもみている側にも何か違う対応が求められる時がきている気がしていて、その違和感を認めて、今目の前で自分自身に表してくれている分人に対して接するというのが大事なのではないかと思います。

僕自身も、「あの人、別のところではあんななのに…」って思ったりするんですが、そういうのを自然に許容するの、本当に大事だなと思います。で、それが本当に普通にされてるのが、僕が1年間お世話になってたフラー株式会社というとこだと思っていて、学校での日々を過ごすにつれてなんか違和感あるなぁと思ったらこの点でフラーが自然にこの状態だったからなんだなと気づきました。

多様性を認めるというのはその人の分人全てを受け入れ、いい意味で過干渉しないことなんだろうなぁと改めて思います。


まとめ

どちらの分人もみた上で、何か「あれ、みたよ。」とか、「応援してる。」みたいなどちらの分人も許容してくれるのはほんっとうに嬉しいのでそういうのはバンバンお待ちしてますが、片方の分人だけを主にして、もう片方の分人を否定するのは嫌だなぁと思ったという話でした。

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