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アーティチョークのすすめ

 アーティチョークという食べ物をご存じだろうか。最近だとちょっと敷居の高いスーパーや、海外の食品を扱うお店にて販売されているケースが多い。だがこれらは全て、すでに剥かれた後のアーティチョークが缶詰にされている場合が多いため、本来の姿やその食べ方を知っている方々は少ないと思う。

私が本来のアーティチョーク、つまり剥かれてないままのアーティチョークとの初対面は十歳であった。南米に移住して間もないある日、祖母が市場からアーティチョークを数本買ってきたのがきっかけである。見た目は、ドラゴンフルーツのような形と大きさで、違いは緑の葉っぱに覆われている野菜である。見た感じ、葉っぱはとてもじゃないが美味しくはなさそうで、これをどう食べれるのか、全く想像がつかない。

アーティチョーク(素材元:いらすとや


 祖母はこれを圧力鍋に入れ、数時間煮込み熱を冷ました後、一人につき一個、そのまま丸ごと皿の上に乗せて出したのだ。私は何も知らされずにテーブルに席をつく。みな無言でアーティチョークを手にすると、片手で葉っぱをむしり取りながら、小皿のソースを少し末端につけて、何やらチューチューと吸っている。この小皿にあるソースは、サラダ油とお酢、塩少々が混ざった代物である。大の大人がみっともなく葉っぱをチューチューと吸っているのは、今思うと滑稽だが何も知らない子供が見ると恐怖そのものだろう。しかし当時空気が読める子供だったので、私も無言で見よう見まねで葉っぱをむしり取り、ソースをつけてチューと吸ったが、お酢の味しかしない。肝心のアーティチョークの味がよく分からないのだ。

「これは何か変だぞ」

不安を覚える子どもの私をよそに、大人たちは一心不乱で葉っぱをどんどんむしり取り、チューチューを繰り返す。途中で飽きた気持ちもあったが、ご飯を残すと怒る祖母だったのでひたすらお酢の味を噛み締めるなんとも言えない時間が過ぎていった。
むしり取られていくアーティチョークはどんどん小さくなる。そして最後の葉っぱにまで到達すると、上部は何重にも重なったひげのような葉っぱの赤ちゃんが現れる。これを全て綺麗に取り去ると、綺麗なお椀型のアーティチョークの身が現れ、やっと食べれる部分が露出するのだ。細かいひげが手につくのでさっとタオルで拭きつつ、メインとなる身をフォークで指し、これにソースをつける。アーティチョークは素朴であり、味がほぼないので、お酢と塩がいい感じのアクセントとなる。また圧力鍋で茹でられているので、歯応えも柔らかく非常に食べやすい。なるほど、これは病みつきになる味である。

ちなみにその後判明したのだが、チューチューしていたのはソースを味わうわけでなく、葉っぱの末端についた少しついている身の部分を前歯でかじって食べていたのである。それこそ雀の涙ごとくのほんのちょっとしか食べどころしかないので、最初の変なチューチュー儀式はいらないのではないかと突っ込みたい。だが「郷に入っては郷に従う」べきであり、そんな愚直なことなど言ってはならないのだと、幼きながらも空気の読める子どもであった自分を褒め称えたい。

 にしても、近年このアーティチョークの美味しい部分のみ売られているところを見ると、個人的にはあの衝撃とあのチューチュー儀式を知らない方々についつい言ってしまいたい衝動に駆られるのだ。それこそ友人に南米料理を振る舞う機会に、丸ごとアーティチョークを出してあげたいのだが、肝心の圧力鍋を買うところから始めないといけない。ぜひ知り合いや友人の方々にあの黙々とチューチューする場面を体験して欲しいものだ。


「食事についてのエッセイを書く」の課題で書いたものです。
アーティチョークの食べ方はネットにも記事があるので、ぜひ機会があったらチューチュー儀式を。

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