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コアバリューをつくるな。 |カルチャーデザイン

ビジョン、ミッション、バリュー。

企業文化のデザインプロセスにおいて象徴的に語られることが多く、最近はVMV(Vision Mission Value)とも略されたりしますね。

企業を「船」に例えるならば、

" 我々はなぜ
どこへ向かって、
どのようなやり方で、
何を拠り所に
一つの船として長い航海していくのか。"

そんな理由と、ベクトルと、価値観のアウトラインを、
誰の目にもわかるように明らかにし、繰り返し唱え、行動として体現していくことの「企業文化デザイン」へのメリットはもはや敢えて語る必要が無くなってきました。これは本当に素晴らしいことです。

ただし、ある方法論がフォーマットとして認知・実践されて行けば行くほど、副産物としての「デメリット」が顔を覗かせ、蓄積されてくるのもまた真理というものです。光はその輝きが強くなればなるほど、必ず影の存在が強まるのです。

そこで、今回は敢えて逆の視座で企業文化デザインを考えてみたいと思います。

それが、「コアバリューをつくるな。」という"アンチテーゼ"です。

明文化の闇。

組織の拡大期や停滞期において、その文化、行動の土台となる「価値観」「考え方」「判断軸」を総称、綜合していくつかの、手触りがある最大公約数的なキレの良い「指針」に集約する。それらは大抵

「バリュー」「コアバリュー 」「行動指針」

などと呼ばれたいてい3〜10つの体の良い言葉たちが並ぶ。

細かい定義はおいておいて、私が「コアバリューをつくるな」と投げかけたい問の本質は「明文化」にあると考えるようになっています。

特に、ビジョン、ミッション、バリューは、性質上これが一度明文化された瞬間に、それらを浸透させるというのが目的になりがちです。しかし、文化を育み、組織末端まで根付かせることに対して、コアバリューの浸透プロセスは一部に過ぎないんですよね。

かつ、企業組織固有の文化とは極めて曖昧で、永遠に100%網羅的に把握することはできず、「コアバリュー 」で明文化できる範疇は大抵の場合その文化の上積み的な最大公約数にすぎないと考えています。

文化とは、固有の思想に基づいた行動の集合体です。

信念や考え方だけでなく、誰かいつどんな想いを基に行動したのかという無数の線を束ねた幹であり年輪とも言えます。

輪切りにしたその紋様を可視化しても、その文化の本質をすべて説明することは永遠にできないと考えます。

そしてそうやって可視化することは、都合の良い文化の上積みだけをハイライトし、暗黙で言語化できない「空気」は蓋をされたように置き去りになっていきます。

そもそも、人間は本来、感覚的な生き物。
2歳の息子を見ていて感じることは、彼は言語に頼らず、親の雰囲気から今この瞬間に相手の心がそこにあるのか、怒っているのか、喜んでいるのか、それらの目に見えない「空気」みたいなもを全身のセンサーを使って敏感に察知します。これは人間が動物として備えている第六感のようなものですね。

しかし、われわれは歳を重ねるにつれ、目に見える、形のあるものに依存するような受動的な動物に進化して行くんです。

文字や言葉、可視化と明文化を通じてすべてに手触りとロジックを求めていいくことを人としての成長と定義したとしても、本来すべての物事は極めて曖昧で脆くて崩れやすいのです。

かつ、「文化」の成り立ちは極めて行動的で、身体的な活動、故に属人する。つまり文化は身体の延長なんです。

つまり、「文化」の本質を突き詰めるほど、固有の「企業文化」を明文化・可視化した瞬間にそれは「文化」では無くなると考えるに至ります。

繰り返しになりますが、コアバリューや福利厚生として目に見える形として現れているものはその企業文化を拠り所として集団的行動をした「結果」であって、もちろんその「結果」も曖昧でつかみどころのない文化を構成する「一部」ではあるものの、組織固有の文化を語る上においてはそれはあくまで「氷山の一角」であるという企業としての自己認識の上に全てをスタートさせなければ、本質的に良い企業文化デザインはできないと考えるに至ります。

属人化のすすめ。

世の流れに異論を唱えるならば、対案を出さねばフェアではない。

私がこのアンチーテゼに対して、一つの代案として考えるのは

「スケーラブルな文化の属人化」

とでも言いましょうか。
つまり、伝聞可能なレシピにするのではなく、直接「人」を介してのみで伝承していくことに特化するということです。

このプロセスにおいて、もう一つ大事な視点は

「誰を評価するかが、文化を創る」

という視点。その会社の文化を体現している人を正当に評価する。文化という観点で評価する。極めて具体的で文脈のある行動や結果を評価する。故に、明確に業務パフォーマンス以外でも評価する。(逆に業務パフォーマンスがすべての会社なら、それが極めて明確なその会社の文化だと言えますが)

そして文化という側面で、何を評価しているかを明確にする。当然、それはキレの良い一言ではなく、属人的で長い文脈を持った、会社内人でしかわらない長文であればあるほど納得感は増しますね。
ただ、それでも説明しきれないから、極めて具体的な by nameで、その背後にある無数の文化の文脈を評価し、強める。

時間と労力/コストをかけて、心を付く広告コピーのように並んだ3つか5つのフレーズを浸透させることは、そのプロセスに深い深い意味はあることを踏襲しつつも、やはり文化を育むことのほんの一部でしかないと考えます。そしてそこには、もう一つの闇が存在します。  

"言葉は一人歩きする。"

明文化した言葉の解釈の余地は、その文化が本質的に内包する余白とは異なる形となって自己増殖していくリスクを内包します。

そして、形あるものに頼ろうとしている力学が働いている以上、実際は無味無臭、無形で曖昧極まりない文化の本質をとらえることとのベクトルとは一生擦り合わないという皮肉は、言い過ぎでしょうか。

短期と長期のジレンマ

文化を育んだり、変えたりするのはとても根気のいる長期戦と言えるでしょう。短期的には成果の出ないことでも、時に信念や直感を信じて粘り強く行動し続ける胆力が必要となります。

一方で、基本的な会社は短期で業績が求められます。故に、あらゆる企業活動は目に見える短期的な成果を必要とします。結果として、組織の構成要因である我々は、常に「目に見えるアウトプット」のプレッシャーから逃れることができません。

これは、明文化を担う(仕事上の)文化の担い手も例外ではなく、それを仕事(業務)としてコミットする限り、形あるアウトプットが必要となるのがほとんどです。だから我々は、ついついわかりやすいアウトプットに流れて可視化し、定量評価せねば気が済まなくなるし、そうもしないと会社から評価もされないのです。ここに、文化の担い手のインセンティブと、文化というものの本質がミスマッチしている最大の闇を覗くことができます。

本質的な企業文化デザインにおいては、この落とし穴を把握しながら、本当に意味のある文化へのアプローチから逃げるわけにはいかないんです。だからこそ、属人化という直感に反するスキームをより深く考えてみたい。

無数のコンテキストで紡ぐ文化

一方で、属人的のデメリットは、その人がいなくなると組織や仕組みとしてワークしなくなるということは一目瞭然ですね。だからこそ、採用や登用を「文化の伝承者」という視座で戦略的に担保していくのです。

明文化に頼らない真に文化の強い組織は、常に文化の伝承者という観点でのポジション採用を行い、文化の伝承者という観点での登用を行い、常にその伝承者グループがある一定数を組織全体規模に対して保てるように、さらに大切なのがその質が絶対に落ちないように注意深くメンテナンスをする。私は糠床のメンテナンスをしたことは残念ながら無いのですが、おそらく糠床のメンテナンス、秘伝のタレのメンテナンス作業に近しい門外不出の、レシピにできない独自の価値を紡いでいく作業です。さらにそれは、リバースエンジニアリングできない競合他社に対する強みになるのです。採用や採用広報観点だと、明文化するなと言っても最低限のエクステリアは必要かもしれませんが、それも内部は文化を構成する一部でしか無いという共通理解を持つことです。だからこそ、採用や登用プロセスにおいてもこの「文化の伝承者グループ」が真に重要な役割を持ちます。

仮に会社の文化を変えたいなら、コアバリュー を変えるのではなくまずこのチーム変える。誰を評価するのか、どんな背景における行動と結果を評価するのか、という極めて属組織的で属人的なコンテキストを明確に変える。文化の観点で評価する人やチームを変えるのです。キレの良いコアバリューを作り直すような、一見真っ当で程の良い、わかりやすいアウトプットに頼る必要は、実際無いわけですね。

無数の文脈(コンテキスト)を綜合して文化を紡いでいく、

Context Driven Culture 

(以下便宜上CDC)
と称することができるかもしれません。

人事評価との接続

主に文化の側面からのCDCスキームを見てきましたが、当然「誰かを評価する」という組織上のアクションがある以上

・人事評価
・グレード(昇格/降格)

との整合性も考えなくてはならないですね。

もっともライトなパターンは、CDCにおける文化という側面で優れた人材を「承認」すること自体は人事評価にもグレーディングにも反映させない形。ただ、当然その場合は必然的に文化へのアラインするインセンティブが弱くなるので、非公式でもそれらの貴重な人材が承認されるプロセスや機会はあって然るべきでしょう。

ただ、CDCという選択肢を取るほどの企業であれば、それほど「企業文化」の重要さと力強さを理解し、事業戦略、組織戦略全てにおいて「文化」が重要な役割を果たすはずなので、当然その「文化」の中核を成す人材が社内に対して十分に評価されていること自体がこのCDCのプロセスをより強めることになります。

明文化を可能な限り避けるプロセスにおいて、もっとも重要なのが

「キャリブレーション(Calibration)」

と一般には言われる「すり合わせ」作業です。その企業の文化を体現する人材やチームが、by nameで議論し、逆にそのキャリブレーションを通じて当事者が文化の理解を深めていく。極めて属人的で定性的で泥臭い作業なのですが、結局「人」の本質に寄り添えば寄り添うほど、こういったプロセスからは逃れることができないのだと思います。

文化とは「人」の本質に寄り添うこと。

どんなに大きな組織も、それを構成する最小単位は「人」。
「人」は機械ではないので、目に見えない「気」のようなものに左右され、「元気」や「やる気」はロジックでチューニングできるようなものでは無いんですよね。

だから、「文化」と称されるような極めて人間的で、身体や行動の延長のようなものを、強引に整理したり明文化したり単純化すること自体に、文化の本質とは擦り合わない闇を見ます。

物事を解き明かしていくプロセスは抽象化や整理だったりしますが、敢えてそうではない何とも人間的で、物語的で、壊れやすいものに頼ろうとする行為が、我々人間にとっての「幸せ」への道であると信じたいからかもしれません。

「人」も「組織」も、抱える問題の大半は「人」に起因します。だからこそ、そんな根本的な「想い」から、「お前は文化をどうデザインしたいのか」という問いに、正面から向き合い続けていきたいものですね。

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