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テーマ:青春の定義(ライティングX課題提出記事)

青春の定義とは最後まで走り抜けること

「あなたの青春はいつでしょうか」
こんな質問を受けたことがあるだろうか。
誰にとっても、青春時代というものはある。
しかし、いつからいつまでが青春時代なのか、という青春の定義は曖昧である。
定義という意味では、“年齢的に若い時代”ということができるだろう。
誰にとっても青春時代はあるはずなのに、定義が曖昧なのは、なぜだろうか。

現代社会において青春というのは、“年齢的に若い時代”という定義は古い、という考え方が普及した。
こうした考え方が普及したのは、平均寿命の延長が原因として挙げられるだろう。
平均寿命が伸びたことで、“人生の生きがい”というものを追い求める人が多くなった。つまり、「一生現役です」という人が多くなったことが要因としては、一番有力だろう。そのため、“引退しない”イコール“一生青春である”ということになる。

そうした、「一生青春」である人が増えてきたこともあり、青春の定義が曖昧になってしまった。その一方で「青春時代なんて、もう昔の事すぎて忘れてしまった」という人もいる。一生青春という人がいれば、青春時代は昔のことという人もいる。
こうした違いは、どのように生まれるのか、そして、『青春時代』と言っている、『青春』の定義とはそもそも、いったいなんなのかについて、今回改めて考えてみたいと思う。

私はつい昨年まで、ブラック企業に勤めていた。
ブラック企業というのは、勤めている人間には、その環境が劣悪だとは気づかない。自分の環境が恵まれてるか否かというのは、他者と比べることによって、初めて気づくことができるものなのである。
私の会社に勤めている人は、「自分の環境は恵まれている」と信じていた。それを、常に言葉として、口に出すほどに、心の底から感じている様子だった。
「不満を言う人もいるけど、残業したら、残業しただけ残業代をくれる会社なんて他にはない」
「今の年齢で、これだけ給料をくれる会社は、探しても他には見当たらない」
「自分のペースで仕事ができるんだから、こんなに楽なことはない」
こうしたことを心から言えることが信じられなかった。これらの内容は、現実逃避だと感じていたからだ。残業代をくれる事なんてメリットと呼べるものではなく、そもそも問題なのは、残業をしなくては終わらない、仕事内容にある。こうしたことに、疑問を持たず、ただ淡々と日々をこなしてゆく。そうした人間だけが、会社に残っていくのだろうと、心から感じたのだ。

これは、“諦め”である。
自分の中で「諦めている」ことに気づくことができないのは、やはり他者と比べる術を持たないからであろう。
こうした考え方になると、どうしても、現実社会においての成長はない。
それを自分でも自覚があるのかないのか定かではないが、「今を諦めてしまっている人」に見られる傾向として挙げられる中に、“昔話をする”というものがある。しかも決まって、それらの昔話は、“武勇伝”である場合が多い。
「俺も、昔はすごかったんだぞ……」
と話し始める、アレである。
若い人の中には、おじさんの武勇伝ほど、聞きたくないものはないと、思っている人が多いようだが、それは恐らく、“伝は今を諦めたおじさんが語っている過去の栄光”だからだろう。
過去の栄光だけなら、語っても嫌がられるとは限らな武勇い。
例えば、今でも活躍していて、現役バリバリのおじさんなら、過去の栄光を語ったところで、ウンザリはしないだろう。
この違いは、どこにあるのかと言えば、やはり“今を諦めているか否か”だろうと思う。

こうした、“今を諦めた人”から、話を聞きたいと思わないのは、「こんなおじさんになりたくない」と思われていることの証明だろうと思う。
もし若い人に、「こんな歳の取り方をしたい」と思われていたら、おそらくおじさんの話す言葉を食い入るように、前のめりで聞いてくれるはずだからだ。
“武勇伝”だと思っている時点で、もはや、他人から憧れられることはないのである。
私の会社に新卒として、入ってきたZ世代の若者たちには、こうした“武勇伝”を話すおじさんが嫌われていたのは、言うまでもない。

こう考えると、ずっと現役でいることによってもたらされる効果は、想像以上に大きなものであることがわかる。
現役でいたいという、願望でも良さそうだ。
とにかく、諦めずにチャレンジすることであろう。

いわゆるZ世代と呼ばれる若者たちから「今を諦めた人」として、私は見られていなかったように思う。なぜそう言えるのかと言えば、私の話には、“過去の栄光”が含まれていなかったからだ。
そもそも私には、過去に自慢できるほどの栄光もなければ、武勇伝も存在しない。
私にあるのは、“今の自分”だけだった。
過去に栄光と呼べるものがないと言うのは、自慢できるものがないということだ。すると、人に対して偉そうに振る舞うこともなければ、上から目線で蔑むこともしない。
こうした態度は、若者たちを惹きつけるようだった。
「考え方が若いし、柔軟ですね」
と若い人からは言われていたし、実際に誰かを頭ごなしに怒ったりすることはしなかった。こうした考え方も、私が日頃“今の自分”を見ている結果だと思う。
Z世代の若者は、考え方が柔軟だった点と、何かに依存することがない点において、尊敬に値した。見習うべき点として、受け止めることができたのだ。
会社にとってのメリットとなりそうな事であれば、下手に計算などせずに躊躇なく提案した。
まだ新卒の頃から、来年入ってくる新卒の子たちが、少しでも居心地がいいと、思ってもらえる会社作りを目指していた。
対外的にも、会社のイメージが悪いとして、イメージ戦略までかんがえていたのだ。
しかし、古くから会社に依存している古参社員は、それらのアイデアに対して、「生意気だ」という理由だけで、潰しにかかっていた。
実に、つまらない考え方である。

今を輝く若者たちには、『青春』と呼べるほど、まだまだ“青くさい”部分があったのは言うまでもないが、それを差し引いても、見習うべき点も数多くあったのだ。
しかし、“今を諦めた人”にはそうした姿は、美しく映らないようで、「小僧が、生意気言いやがって、まだ1年しかやってないくせに」と言う生の声が聞こえてきた。
年功序列という、社会によって、日本の高度成長期が造られたのは事実であり、そのことを否定するつもりはないが、あまりにも悲しい言葉である。年齢やキャリアだけで、上から目線の物言いをすることに意味はなく、むしろ失うものの方が多いことは明らかだろう。

これらの私の経験と、接してきた人々の考え方を見ると、『青春を謳歌している人』というのは、やはり年齢ではなく、その考え方にあるようだと言えそうである。
“今の自分を成長させるために頑張っていう人”というのは、“今を諦めた人”と比べると、明らかに柔軟な姿勢と学ぶ姿勢というものを持っている。
こうした柔軟な姿勢と学ぶ姿勢は、成長には欠かせないものであり、“成長する人間”は間違いなく持っているものである。
言い方を変えれば、『青春を謳歌している人間』にとって、欠かせないものこそ、学ぶ姿勢なのだ。

いつまでも学ぼうとする人は、謙虚であり、誰かのことを蔑むような真似は決してしない。こうした姿勢を持ち続ける人こそが、いつまでも青春時代でいることができるのだといえるのだ。

では、『青春の定義』というものを、ここから改めて考えてみたいと思う。
定義というのは、言葉による共通認識である。
つまり、「これは明らかに“青春”のことを言っているよね」と多くの人が思うことになる。冒頭に述べた時は『青春の定義』は曖昧であったが、それは捉え方の違いであったことがわかった。
『青春時代』のことを考えることによって、『青春』というものが見えてきたようである。これまでで出てきた結論において、『青春』というものは、「成長しようとする力を持ち続けている状態」のことを言うようである。
それは、仕事でもいいし、好きなことでもいい。どんなことであれ、必死に、もがき苦しむことも、楽しく健やかに、謙虚に生きることも全て青春なのである。
そこには、学ぶ姿勢をもち続け、最後まで諦めない自分という姿がある。
こうした生き方を貫く人にこそ、『青春』を語る資格があるのではなないだろうか。

「私は、青春を取り戻しました」
という人をたまに見かけると思う。
私自身が、まさにこんな発言をしていた。一時期、人生を諦めたことがある。
それは、私が寿司屋を潰してしまった時だ。
人生の全てを、「一国一城の主になる」という夢に捧げていた。その夢が全てで、その先は無かったのだ。店を持った時に、人生なんて、なんでも思う通りになると思っていた。念ずれば通づるのだと、人に向かって偉そうに言っていた。
私は世間知らずだったのかもしれない。
そのうちに、経営は傾き、火の車と化してきた。
そんな時には、お金のことしか考えられず、寿司を食べてくれるお客様のことなんて、二の次という状態だった。案の定、店は無くなった。

このことを考えた時、いったい何が悪かったのだろうかと、今でも考えることがある。そんなとき、いつも行きつくのは、「必死にもがき苦しんでいなかった」という後悔である。
私は、格好つけることだけしか考えていなかった。
自分がここまでこれたのは、皆さんのおかげですと言いながら、本当はそうは考えていなかったのだ。
自分が努力したから、自分のキャリアが少しずつ上向いてきた。そんな事ばかり考えていたのだ。

寿司屋のアルバイトの子が、自分よりも寿司を握るのが早くなったことに対して、気に入らない態度を示し、慕ってくれていたのに邪けんに扱って失ってしまった。
自分が仕事を教えたのに、いざ、自分の実力を抜かされると、それを認めようとはせず、足を引っ張ることしか考えなかった。

これでは、ブラック企業の古参社員と全く同じではないか。
自分のことしか考えておらず、新入社員は勿論、お客様のことさえも微塵も考えていなかった。いや、考えているフリだけをしていた、物事に対する取り組み方としても、大変格好の悪い生き方をしていたのだ。

つまらないプライドを持ち、自分にとって都合のいい解釈で、若者の実力を見ようともせず、自分の成長の機会も失ってしまった。
そうしていくうちに、次第に成長するためには何が必要なのかわからなくなり、自分自身を見失っていったのだ。
これは、誰にでも当てはまることかもしれない。

「青春というのは、二度と帰ってこない」
とも聞く。それは、こうした意味も含まれているのだと思うのだ。
自分にとって、都合のいい生き方や、解釈を続けることは、結局大きな損失を生むことになるのではないだろうか。

ただ、がむしゃらに生きることが、青春ではない。
むしろ、冷静でも良いのだ。
諦めないことだ。どんなに過酷な状況に置かれても、諦めたらその時点で終わってしまう。
諦めた瞬間に、青春は終わるのだ。
諦めないためには、とにかく止まってはいけない。
歩き続けることでしか、見えない景色があるのだ。

私は、父を尊敬している。
父は今年で、70歳を超えた。
しかし毎日、『英会話』をラジオで聴き、学び続けている。
外国に行くわけでも、外国人と話す機会があるわけでもない。
しかし、学んでいる。ここに理由などない。
常にチャレンジすることで、私のような若輩者の言う事も聞く耳を持ち続けている。そして、考え方は柔軟で、「そういう考え方もあるかも知れんな」といろいろな人の意見を聞くこともできる。
日々、英会話ができるようになっており、明らかな成長を感じることがある。
このように成長し続けている父と、学校を出たばかりの20歳前後の若者と、どこがどのように違うのかを、私は説明できない。
どちらも鋭気に満ち溢れ、生き生きとしている。どんどんと吸収してやろうという気持ちが滲み出ている。青春そのものではないか。

おそらく、こうした年の取り方をしていきたいと、私は心の底で思っているのだと思う。
人生最期の日まで、父のように生きられたら、きっと素晴らしい人生だったと言えるのではないかと、心から思うのだ。

この間の日曜日には、実家に遊びに行った。
父が語る武勇伝を、私は前のめりで、一字一句逃すまいと聞いていた。
それは、父のような年の取り方に憧れているからに他ならない。

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