[昭和話#2]母のバイク

昭和40年代の第二次ベビーブームの時期、横浜の外れに生まれた。

子供の頃、母はバイクに乗っていた。
ヤマハの原動機付自転車、いわゆる原チャと呼ばれるもの。
まだ今のようなスクータータイプが出る前の時代。
ホンダのカブのように、足は左右のステップに乗せるタイプだ。

家の立地的に、最寄り駅まで2.5キロほどあった気がする。
徒歩なら30分、バスだと停留所までの徒歩も合わせて15分、バイクなら7~8分くらいのイメージだった。都内住みの人にはあまり想像がつかないかも知れないが、横浜は丘や山が多く高低差が激しい。野を越え、山越えしながらの徒歩30分は、わりとしんどい。

そんな理由から母は晴れた日はバイクで移動していて、子供を連れている時も同様だった。
つまり、母と兄と自分の三人乗りで移動していた。
椅子の後ろの金属製の荷台のような所に兄が、椅子前のハンドルとの間に自分が、母をサンドイッチする形で乗るのだ。

もちろん道路交通法では、原チャは一人しか乗っては行けない事になっている。母は常識人で、常日頃から「悪いことはしてはいけないよ」と子供に言うような人だったが、たぶん三人乗りに関しては「便利だからいいでしょ」くらいにしか思ってなかったと思う。今なら考えられないが、当時の世間の雰囲気・空気感はホントそんな感じだった。ヘルメットの着用義務もなかったおおらかな時代。

ある日、いつものように三人乗りで最寄り駅に向かっていた時だった。
ホンダカブに乗ったお巡りさんに呼び止められた。
お巡りさん「ちょっと、そこのお母さん」
お巡りさん「ダメだよ~、原チャの定員は一人と決められてるでしょ~」
母「ごめんなさい…」
お巡りさん「目の前で乗られるとね~、こっちも見過ごせないから」
母「じゃあ、子供降ろして押して歩きます…」
お巡りさん「うん、そうして~」
そんな感じで無罪放免、違反切符も切られなかった。

突然降ろされて歩かされた自分は腹立たしかったのを覚えている。
自分「いつまで歩かないといけないの!?(怒)」
母「そこの角曲がるまでよ」
角を曲がって、お巡りさんの視線が切れた所で再び三人乗り、出発。
「やれやれ、だるい事させやがって」と子供心に思った瞬間だった。

時代背景的には、大排気量のバイクの死亡事故がすごい勢いで増えていた。ヘルメット着用義務や排気量によるパワー規制、「司法試験より難しい」と揶揄される程の合格率(1%)の限定解除審査開始など、法改正が相次いだ。
また、警察の取り締まりも年々厳しくなっていった。

おかげで自分がバイクに乗れるようになった頃には、どんだけ切符を切られた事か。
母を見過ごしてくれたお巡りさんのやさしさが懐かしい。




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