フーコー著『真理とディスクール パレーシア講義』を読んで

 こちらは、ようやく見つけたフーコーの後期のパレーシアに関する講義の文献です。

本書によると、パレーシアが初めて登場するのはエウリピデスの悲劇において、紀元前五世紀末にはギリシアの世界では使われていたとされています。

パレーシア 名詞(素直に語る)
パレーシアゾマイ、パレーシアゼスタイ 動詞
パレーシアステース 名詞(真理を語る人)

 レトリック(弁論術)を使わずに、みずからの意見を明確かつ明瞭に、直接的に語る。つまりパレーシアを行う者の「発話行為」は、「わたしはこう考える者である」という形をとるとのことです。

「真理(アレーティア)は、自由(エレウテリア)と直言(パレーシア)の二人の召使いをつれている。」

ミシェル・フーコー「真理とディスクール パレーシア講義」筑摩書房p.9 註釈より引用。

パレーシアは自己批判か他者批判かを問わず、批判する機能を果たす。パレーシアは低いところから高いところへ向かって語られる。そして、自由と義務にむすびついているとフーコーは述べています。

正確に表示するとパレーシアとは、発言者が真理との個人的な関係を表明し、他者や自分を改善し、援助するために真理を語る義務があると考えて真理を語ることで、自分の生命を危険にさらす言語活動です。

ミシェル・フーコー「真理とディスクール パレーシア講義」筑摩書房p.22 より引用。

①パレーシアとレトリックの関係(自然な文彩)
レトリックと対立する。レトリックの零度。

②パレーシアと政治の関係(アテナイの民主性)
アテナイの政治制度では、民主制(デーモクラティア)、発言の平等な権利(イセゴーリア)、権力の行使におけるすべての市民の平等な参加(イソノミア)、真理を語る権利(パレーシア)が享受できたとされる。
※市場(アゴラ)の集まりで議論や討議がされていた。また、教養と知識(マテーシス)を必要とする(魂の教育?)。そして、法律(ノモス)と真理の関係など(諸力間のゲーム)。

③パレーシアと哲学(生〔ビオス〕の技術〔テクネー〕  、自己の配慮〔エピメレイア〕  )
アテナイを支配するには、まず自分への配慮を学ばなければならない(対外的には自己告発している?)。たがいに教えあい、助け合うための実践について語ったもの。禁欲(アセテイスム)、教養(マテーシス)鍛錬(アスケーシス)よって学ぶ必要があるとのことです。

わたしは「思想史」と「思考の歴史」を区別しています。多くの場合、思想史の専門家は概念が登場する時期を決定しようとします。そして新しい言葉が登場したときをもって、その概念が誕生したと判定します。しかしわたしがやろうとしている「思考の歴史」はこれと違います。制度、実践、習慣、行動などが、人々にとっねどのように〈問題〉として現れるかを分析するのです。特定の方法で、行動し、特定の習慣をもち、特定の実践を展開し、特定の制度を機能させる人々にとって、その〈問題〉がどのように登場したかを考察します。

(中略)

それまで沈黙していた行動、習慣、制度に危機が生じたのはどうしてかを考えるわけです。このような〈思考の歴史〉は、狂気について、犯罪について、セックスについて、自分自身について、真理について、人々がどのようにして不安を抱き始め、気遣い始めるかを、歴史的に分析する方法なのです。

ミシェル・フーコー「真理とディスクール パレーシア講義」筑摩書房pp.11-112 より引用。

上記の引用は、何度かフーコー関連の文献で見たことがありますが、本書からの引用だったのですね。文献が見つかってほんとよかったです。

自己との間で自己愛(フィラウティア)の関係を結ぶこと。自己愛によって自己への幻想につながってしまう(自分がなにであるか、だれであるか認識できない、自己欺瞞へつながる)。アウグスティヌスも自己愛について語っていたとのことだし、自己愛は古くから議論されたテーマかもしれません。話は、自己欺瞞から、自己と真理の関係、自己と理性的な原則を吟味する〈自己の技術〉へと移ります。

以下、本書の中からのセレヌスの自己の記述になります。
※元はセネカ「心の平静について」東海大学出版会 pp.303-304 からの引用です(孫引きでごめんなさい)。

ところがまた、私の心(アニムス)が種々の思想の偉大さに感動して高ぶってくると、言葉をうまく使おうと野心を起こし、意気も語調もともに高揚することを大いに望み、事柄の高貴さに匹敵するように話が出てくるのです。そうなると自分の掟も、更に一層強く押さえつけられ判断も忘れて、いよいよ高く運ばれていくのです。その言葉は、もう私の口から出たものではありません。

ミシェル・フーコー「真理とディスクール パレーシア講義」筑摩書房p.231 より引用。

本書の考察は、自己の吟味と道徳からの要請へと進み結論へと進みます。

たとえば歴史のある時点において、特定の形式の行動だけが「狂気」と呼ばれ、「狂気」として分類されるのに、他の形式の行動はまったく無視されるのはなぜかを分析するのです。これは、犯罪や非行についても同じことが言えます。セクシャリティについても、同じような問題構成の問いを提起できるのです。
この種の分析は「歴史的な観念論」だという意見もあります。しかし歴史的な観念論の分析と、問題構成はまったく異なるものです。わたしが、狂気、犯罪、セクシャリティの問題構成を分析するというときわたしはこうした現象の現実性を否定しているわけではないのです。その正反対です。ある特定の時点において社会が規制しようとするのは、まさしく世界に存在するものであるということを、わたしは示そうとしてきました。

ミシェル・フーコー「真理とディスクール パレーシア講義」筑摩書房p. 250 より引用。

このように、本書ではパレーシアの講義とともに、フーコーの〈問題構成〉の方法論が示され
実際に使われています。このこと自体が〈自己の技術〉の実践であると考えられます。そして、以下の言葉で結論を終えています。

特定の〈問題構成〉を前にして、世界の具体的で特定の側面に対する応答として、ある種の回答が示された理由を理解できるだけです。問題構成のプロセスにおいては、思考と現実はある関係を取り結びます。わたしが特定の問題構成を、特定の状況に示された回答、独創的で、具体的で特異な思想による回答の歴史として分析できると考えるのは、そのためです。そしてわたしは、パレーシアのさまざまな問題構成を検討することで、真理と現実の間の特有の関係を分析しようとしたわけです。

ミシェル・フーコー「真理とディスクール パレーシア講義」筑摩書房p.252 より引用。


(終わり)

参考文献
ミシェル・フーコー(2002)真理とディスクール パレーシア講義,筑摩書房.

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