システムズアプローチの学び方

本題に入る前の長い前置き
 システムズアプローチでは、起きている事象や問題をかたまり(システム)としてみるということはご存知だと思います。このようなシステム論や、同時期に現れたサイバネティックスと呼ばれる理論を背景にしていますが、これらについて詳しく触れられることはあまりありません。また、これらの理論を実際のセラピーでどのように活用するかも手がつけづらいところがあるかと思います。

 勉強会でも家族療法に強い影響を与えたグレゴリー・ベイトソンとミルトン・エリクソンについて取り扱う予定でした。そして3月の勉強会では、「あそび・フレーム・パラドクス」と「コミュニケーションの語用論」のふたつをテーマにしようとしていましたが、勉強会自体が開催出来ませんでした。申し訳ありません。そこで、今回はそのごく一部をコラムとして書きたいと思います。とはいえ、私自身も独学で学んだものなので間違いや誤読もあるかと思います。あくまで、こんなふうに理解することも出来るという認識で、皆さんのこれからの学習の手がかりになればという内容です。

 システム論とサイバネティックスが生まれたのは第二次世界大戦から1950年代中頃の期間と言われています。システム論はベルタランフィが提出した一般システム理論から始まります。それまでの、要素還元主義的で直線的な科学理論の限界から、より複雑で非直線的な全体を扱うために生まれた科学理論です。そして、サイバネティクスはウィーナーが提唱し、第二次世界大戦の弾道ミサイルの開発がその理論の実用化を促進させたと言われています。弾道ミサイルの開発には情報のフィードバックと自動制御が必要になります。こうした複雑な過程を扱うための理論がサイバネティクスで、現在のAIなどの技術の元にもなっています。第二世界大戦後、サイバネティクスはメイシー会議で、さまざまな科学者達が集まり議論されました。グレゴリー・ベイトソンもそのなかのひとりでした。ちなみにグレゴリー・ベイトソンは第二次世界大戦中に、ミードやベネディクトと一緒に日本人の文化構造について研究していたと言われています。余談ですが、1945年にはミルトン・エリクソンが「ミルトン・エリクソンの二月の男」という本にもなっている革新的な心理療法のデモンストレーションを行なっています。また、アフォーダンスを提唱した生態学的心理学のギブソンも同じ頃に空軍のパイロットの視覚について研究しています。

 話をベイトソンに向けていきたいと思います。ベイトソンは遺伝学者の父を持ち、ミードと公私をともにしたパートナー(その後離婚しています)でもあります。ベイトソンは文化人類学者と言われていますが、その関心は生物学、遺伝学、動物行動学、論理学、言語学、哲学など幅広く知の巨人と言われています。その研究は、種族の文化の分裂形成(コミュニケーション公理の相称性と相補性の元となる研究)、AA(アルコホーリクス・アノニマス)の12ステップ、精神病練でのフィールドワーク、タコやカワウソのコミュニケーション、イルカの学習過程、などさまざまです。ちなみにMRIが生まれるきっかけのひとつにベイトソン、ヘイリー、ウィークランド、ワッラウイック等がミルトン・エリクソンの心理療法を調査していた背景もあります。

 ベイトソンの理論的な背景には、サイバネティックスと、ホワイトヘッドとラッセルが「プリンキピア・マテマティカ」で提唱した論理階型理論からの影響が強くあります。そこからクラスとメンバーやメタ・コミュニケーション、ダブルバインドや学習理論が生まれたと言えます。ベイトソンの研究は、変化、学習、進化という様々なレベルの相互作用(interaction )であり、冗長性(redundancy)であり、それらが「結び合わせるパターン」であると言えます。とはいえ、これらのひとつひとつを扱うことは出来ないため、そろそろ本題の「あそび・フレーム・パラドクス」と「コミュニケーションの語用論」に入りたいと思います。

 興味ある方は以下の記事を参考になりしてみてください。ちなみに、絶版になっていたベイトソンの論文集「精神の生態学」は岩波文庫から数年内に再版される予定です。最後の著作「精神と自然」は既に再販されています。

松岡正剛の千夜千冊 1658夜
サイバネティクス全史


「あそび・フレーム・パラドクス」
 ベイトソンに実際に会ったことのある日本人といえば、名古屋市立大学の野村直樹先生でしょうか。野村先生はベイトソン・セミナーやオープンダイアーローグ研究会などのWSを行なっています。ちなみに、SFAを日本に紹介した白木孝二先生とも交流のある文化人類学者の先生です。野村先生は、家族療法と統合失調症の研究をされていた牧原先生のまきはら病院でフィールドワークをされていたという記憶があります。ちなみに「あそび・フレーム・パラドクス」は野村先生の「やさしいベイトソン」の小見出しから引用させていただきました。

 ベイトソンは動物のあそびというコミュニケーションから、メタ・コミュニケーションという考えを発見しました。戯れ合う動物は、それが戦いではないことを知っていますが、それはどのように分かるのでしょうか。非言語で、「これは戦いでない」と伝えることは困難です。ですからあそびをする際には、今していることに対して「これはあそびである」と伝えるメッセージが必要になります。つまり、メッセージがどのような意味を持つのかを伝える、メッセージを意味づけるさらに上位のメッセージが必要になります。ベイトソンは、コンテクストに関する情報を伝えるメッセージをムード・サイン、またはコンテクスト・マーカーと呼びました。動物の例えでいうと甘噛みでしょうか、人間でいうと恋人同士の声のトーンなど、雰囲気やそれを示すしぐさという何気ないメッセージから、無意識にコンテクストを読み取っているのかもしれません。

 話は変わりますが、あそびはごっこということもいえます。子どもは、ままごと遊びで料理をしたり、大人になったりしますが、ままごとをすることは、料理をすることでも、大人になることでもありません(ただし子どもはごっこから多くのことを学びます)。あそびはあそびが示す、そのものにはなれないのです。また、子どものおもちゃには大きさがあります。大きなおもちゃ、中くらいのおもちゃ、小さなおもちゃ、ごちゃごちゃになったとしても大中小に分けて片付けることができます。あたりまえですが、マトリョーシカ人形は、小さな人形に大きな人形を入れることは出来ません。しかし、夢の中のマトリョーシカ人形はどうでしょうか。物理世界の大中小という階層は、夢の中や無意識ではすぐにごちゃごちゃになってしまいます。古典落語にあたま山の花見というお話があります。ケチな男がさくらんぼを拾い、もったいないからと種まで食べてしまうと男の頭のてっぺんから桜の木が生えてきます。春になり花を咲かせると男の頭の上に人が集まりお花見を始めます。うるさくて怒った男は桜の木を引き抜くのですが、抜いた穴が池となり、今度は池で舟遊びをする人が集まってしまいます。男は悲観して自分の頭の池に身を投げてしまうというなんともシュールなお話です。

山村浩二アニメーション 頭山 Mt.Head

 私たちの意識は、内外から知覚される刺激に対して、これまでの学習に定位づけて、効率よく対処しています。意識はこうした心理的構えに合わせて、注意づけられ、認識されると考えられます。こうしたことは、システムズアプローチで、事象に対して主体が意味づけ(パンクチュエーション)をして認識することを「枠組みづけ」、そして、その内容を「枠組み」と呼ぶことに類似しています。「枠組みづけ」はある種の心理的構え(フレーム)といえます。それでは、どうして心理的構えが必要になるのでしょうか。それは、意識が効率よく対処(パターン化)するために必要なのかもしれません。

 心的な世界や言葉の世界では、物理的な世界と異なり、階層性が無視され、モノやコトがごちゃごちゃになります。階層性が無視されると人は混乱します。たとえば、ごはんを食べた、食べていないといった、ごはん論法では、食事という階層を示すごはんと、お米という階層のご飯を指すを敢えて読み違えて話をはぐらかしています。こうしたことが心的な世界や言葉の世界では起こります。厳密な論理学の世界と違い我々の世界ではこうした矛盾(パラドクス)が起こるのです。こうした矛盾を防ぐためにフレームは二重枠を必要とします。フレーム(枠組み)とアウトライン(輪郭)が必要になるのです。これは、メッセージに対するメタ・メッセージ、フレームに対するコンテクストという関係に類似しています。心理的構え(フレーム)について、野村直樹先生は「やさしいベイトソン」で以下のように定義しています。

心理的フレームの特徴

a. 何かを追い出す
b. 何かを囲い込む
c.「前提」としての働き
d.「命令」する
e.「前提」の輪郭がみえてくる
f. 「二重枠」を必要とする

引用文献 野村直樹(2008)やさしいベイトソン 金剛出版

上記の定義は、システムズアプローチだけでなく、エリクソンアプローチの理解にも役立ちます。

 例えば、言葉で話していることと、話している人の態度が異なる場合、受け手はどのような状態になるでしょうか。また、こうしたコミュニケーションが繰り返され、そこから逃れられないとしたらどうなるでしょうか。意識は混乱し、正常な判断が困難になり、情緒的な反応を示すかもしれません。意識はフレームを用いて事象を理解しようとします。そして、そのフレームは状況(コンテクストまたは文脈)に依存しています。メッセージが一致していれば効率よく対処できますが、矛盾していると混乱してしまうと言えます。エリクソニアンアプローチメッセージでは、混乱技法と呼ばれるものがあります。相手を混乱させることで意識の働きを弱め、トランス状態へ誘うものです。人間には意識の思考と、無意識の思考があり、並行して働いています。意識の思考は矛盾や間違いというエラーを見つけ訂正し整合性を保とうとします。その基準は、これまでの学習から定位づけられたフレームであり、エピソード記憶のような意味を伴います。また、無意識の思考は、目の前の刺激に反応しようとします。その基準は、これまでの生理学的な反応や象徴的な認識といった、手続き記憶のような言語化できないものの蓄積になります。つまり、混乱を肯定に捉えると、これまでの学習したフレームを解体し、無意識に蓄えられたものから再構成される状態と考えることができます。余談ですが、人間の意識状態は、注意が向けられる階層性によって、その状態が変化します。遊びに夢中になったり身体感覚に意識を向けた時の状態と、計算をしたり抽象度の高い概念を検討したりしている時の意識状態は異なるようにです。つまり、フレームが意識状態や注意のあり方を決めるとしたら、必要なフレームを提示したり(エリクソンニアンアプローチでいう前提)、役に立たないフレームから役に立つフレームへ変更することで、変化が生じると考えることができます(実際のセラピーでは間接的に行われます)。

「コミュニケーションの語用論」
 ドン・ジャクソン率いるMRIの研究者達は「人間コミュニケーションの語用論」という本を出版しました。言語学では、意味論、統語論(文法に関するもの)、語用論という分野があり、語用論とは言葉の使われ方に関する分野になります。つまり、人間コミュニケーションの語用論とは、人間の言語的、非言語的なコミュニケーションの使われ方に関する研究のことになります。とはいっても難しく考えるより、日常的なコミュニケーションから理解していった方が馴染みやすいと思います。

 例えば、数人で食事に行き会計時にメンバー全員が、今日は私が奢りますと言い合い誰も譲らずにエスカレートしてしまうような状態は相称的なコミュニケーションといえるかもしれません。そして、一方が自慢して、もう一方がそれを褒める状態は相補的なコミュニケーションといえるかもしれせん。ヘイリーは「戦略的心理療法」で策動(ある種の戦略、もしくは意図)という定義を用いながら心理療法で起きているコミュニケーションを説明するなかで、相手に従うという相補的なコミュニケーションを策動を持って敢えて行うことを上位相補性と呼んでいます。その場を収めるために相手に従う、敢えて下手に出ることで相手を誘導するなんてことは日常的に行われているはずです。

 話は言語学に戻って、言葉はあそびと同じく、言葉は言葉が示すもの、そのものではありません。りんごという言葉が、りんごそのものではないように。けれども、私たちはりんごと聞いただけでりんごを思い浮かべたり、りんごの味や食感を喚起させることができます。時には経験していないことを先取りすることさえできます。言葉には定義される(辞書的な)意味と、意味されること(心的表象)があります。言葉によるコミュニケーションは、意味というトロッコに、意味されることが乗っかって伝達されていく過程です。そして、意味されることは階層性を持っており、コンテクストによって意味されることは変わります。

 言語学には語用論(ポライトネス)の前に、修辞学(レトリック)という分野があります。そこではメタファー(隠喩)などの言葉の技法について研究されていました。隠喩には類推と同じような機能があります。あるものから、あるものを連想させるということです。認知言語学などでメタファーは研究されています。そこでは、メタファーを、シネクドキ(提喩)とメトミニー(換喩)という区分けが存在しています。例えば、花見という言葉は花という上位のクラスの意味を示す言葉で、下位のクラスである桜という意味を示しています(先述のごはん論法も関係しています)。このような表現をシネクドキ(提喩)と言います。上位が下位を表す(お花見)、または下位が上位を表すような(お茶にしましょう)、あるクラスの意味が別のクラスの意味を包含するような意味の世界のメタファーです。もう一方のメトニミー(換喩)は実際の世界で近接するもので言い換えるメタファーです。例えば、村上春樹を読むや船を漕ぐです。実際に読むのは村上春樹が描いた小説であり、漕ぐのは船ではなく櫂になります。このように、メタファーを使うことで言葉意味(枠組み)の階層性を移動したり、関係性をなぞらえたり言い換えたりすることができます。

 と記述していくと抽象度が上がってしまい、実際のコミュニケーションと関連づけづらくなるので、話を日常的に起こるあるコミュニケーションに向けてみたいと思います。その前に以下の動画を前半数分だけでも観てください。

いとしこいし「わたしの好物」

 「鍋」という言葉のズレとリアクションの間で笑いをとっています。こうした笑いというコミュニケーションに目を向けてみたいと思います。人間の笑いについては、緊緩理論、構図のずれ、記憶の連合理論といった理論があるそうです。また、人間の笑いには差別的な意味合いを持つことや、怖さに類似している指摘などがあります(桂枝雀の笑いの緩和理論は興味深いです)。たしかに、漫才やコントをよく観察すると、緊張と弛緩や、怖さやシュールさ、または構図のずれが笑いを生んでいることが観察できるかと思います。先程の「鍋」についての漫才を例にすると、ツッコミの「鍋」=鍋料理という構図(枠組みもしくはフレーム)に対して、ボケは「鍋」=鍋を食べるというズレた構図で会話を進めていきます。そのズレは微妙なリアクションの間で示されます。ボケの構図は機械的に繰り返され、その仕草から笑いが出ます。こうした構図というのは、誰しも持っており、システムズアプローチでいう枠組み(フレーム)と考えてみることができます。枠組みを合わせたり、外したりすることでコミュニケーションで起こる相互作用が変化すると考えることができます。また、枠組みは、その人が持っている理解の前提ともいえ、野村先生の心理的フレームの特徴を持っていると考えることが出来ます。漫才やコントでは、こうした枠組みのズレや、文脈(コンテクスト)に合わない枠組み(フレーム)を機械的に繰り返すボケから笑いが生まれているとみることができます。私たちは漫才やコントを観る時にフレームやコンテクストを意識しているわけではありませんが、何気なくその人が持つ枠組みや文脈を理解して、それがズレたり合ったりする様を笑っているということもできます。

 実際のセラピーは、はじめはしっかりと来談者の枠組みに合わせ、来談のニーズに合った会話にのせながら、その過程で枠組みが変わっていく(つかんで、あわせて、かえる)。そして、その変化は来談者とその関係者の役に立つという目的を持ったコミュニケーションといえるのかもしれません。そこには、漫才やコントのように、特定の型みたいなものが現れると考えられます。システムズアプローチでは、Th自身のコミュニケーション特性(口調から使う技法までを含むThの振る舞い)、つまりコミュニケーションの用いられ方をアセスメントに含めることがより精度の高いケースフォーミレーションとなります。一部しかお話できませんでしたが、コミュニケーションにおける語用論を考えていくこと、つまり日頃の何気ないコミュニケーションを観察しその機能について検討していくことはセラピーで非常に役立ちます。その人の振る舞いや置かれた状況から、その人が持っているフレームを推測することができますし、フレームを形成するために必要な経験(相互作用)を推測することもできます。語用論は何気ない私たちの生活の中にある会話だけでなく、広告や映画や演劇(ゴッフマンのドラマツルギーも関係しています)などの表現でも暗黙のうちに使われています。クラスとメンバー、パターン、学習理論、脱学習、包含、前提、隠意、暗示と明示、自明の理(イエス・セット)、利用技法、混乱技法、早期学習セット、知覚の定位、未来志向、時間の偽定位(ミラクルク・エスチョンの元)、メタファー、アクネドートなど、このようなヒントがベイトソンの研究とエリクソンの実践には眠っているのです。

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