『時間』を想う時

『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず(鴨長明, 方丈記)』

 ゆく河の水の流れは、絶える事がなく流れ続ける状態にあって、それでいて、それぞれのもともとの水ではない……。僕らは何かが整然と動くと、その背後に何がしかの『流れ』を感じる。河の水の流れのように目に見える現象でなくとも、木々の葉が揺れれば、あるいはアスファルトに散らばる木の葉が舞い上がれば、そこに空気の流れを感じ取る。

――『時間』はこれと同じ匂いがする。

 時間から感じる『流れる』という印象は、僕らの日常経験によって養われた見かけのものに過ぎないのかもしれない。実際、哲学者の野家啓一さんは『時は流れない、それは積み重なる』と形容した(野家啓一:物語の哲学p158)。

 ただ、僕らが感じることができる限りにおいて、『変化』と『時間』は切り離せないように思われる。ゆえにジョン・エリス・マクタガートはA系列こそに時間の本質が宿ると考えた(John McTaggart :Mind.1908.17: 457-73)。

『時間におけるもろもろの位置は二つの仕方で区別されている。【一つは、】それぞれの位置は他のもろもろの位置のあるものよりは前にあり、別のあるものよりは後にある【という区別の仕方であり、もう一つは】それぞれの位置は、過去であるか、現在であるか、未来であるか、のいずれかである【という区別の仕方である】。前者の部類の区別は永続的【不変】であるが、後者の部類の区別はそうではない』(時間の非実在性:講談社学術文庫, 永井均 訳p17)

 A系列とは上記引用文中、後者に該当するもので、”遠い過去から近い過去を経て現在へと、そして現在から近い未来を経て遠い未来へと連なる一系列”のことである。他方で引用文中、前者に該当する”より前からより後へと連なる一系列”B系列と呼ぶ。

 マクタガートはA系列が時間の本質としながらも、A系列は矛盾しており、実在に当てはめることは不可能であるがゆえに時間は実在しないと論証した。

『もし出来事Mが過去であるなら、それは未来と現在であった。もしそれが未来であるなら、それは現在と過去になるだろう。もしそれが現在であるなら、それは未来だった、そして過去になるだろう。このようにしてそれぞれの出来事に、両立不可能なこの3つのタームが全て述語づけられうる。このことは明らかに、それら三つのタームが両立不可能であることと、不整合であり、それらが変化を産み出すことと不整合である(前掲書p42)』

 過去・現在・未来は両立不可能な規定であるが、マクタガートの言うように、どの出来事もそれらすべての性質を持つ。これがA系列に内包された矛盾であり、それゆえA系列を本質とする時間は実在しないと言うわけだ。

 このマクタガートの論証には様々な批判がある。確かにこの論文を繰り返し読んでも、いまいち腑に落ちない点は多い。だけれども、その違和を精密に言葉にしようとすることもまた難しい。

 時間とは、それを言葉で定義することが困難なほど、曖昧な概念であり、確かな手触りを感じることなく、そして掴もうとしても掴み取ることができない何かである。ただ、『変化』に着目すると、時間の非実在性という輪郭が少しだけ見えてくる気がしている。

 変化とはつまり、物体の運動に他ならないように思えるが、僕らが認識している物体運動は物理法則に依拠している。しかしながら、物理法則も科学史を俯瞰すれば一枚岩ではない。ニュートン力学からアインシュタインの相対性理論への転換は、プトレマイオスの天動説からコぺルニクスの地動説への転換に似ている。トマス・クーンの言葉を借りれば、パラダイムはいくらでもシフトしうるのが物理法則に代表される科学理論である。

 絶対的な真理性を有する物理法則というものに、僕たち人間は容易にアクセスできない。同じ物理現象であっても、人間よりも優れた知性体が存在するならば、人間の物理法則などより、もっとシンプルかつ論理的な法則を使って、その現象を説明するだろう。

 従って、時間が物理法則に依拠しているのであれば、絶対に正しい時間概念の把握など僕たち人間には不可能である。時間の非実在性はそういう観点からも支持されるように思える。

 時間が流れているから変化が発生するのではなく、変化が起こるから時間が流れているように感じる。このことは『本当に時間が流れているのだろうか?』 と思える風景に出会ったとき、そこにダイナミックな変化を感じ取ることができないことにも裏打ちされている。

 実感はあるけど実体がない、それが僕たち人間にとって、時間というものの本性だ。だから人は物の動き(端的には時計の針や空の色)からでしか、時間を認識できない。このことはまた、美味しい、美しい、楽しい、といった主観的な情動と、時間という概念が極めて類似していることを示唆する。

つまり、時間とは客観的な何かではなく主観姓を帯びている。確かにリアルさはあれど、時間は僕たちの頭の中で関心相関的に構成される、ある種の錯覚に他ならない。

 時系列的出来事において、「過去」「現在」「未来」があるように感じるのは、「記憶」「知覚」「予期」という人間特有の認識に対応しているからだ。おおよそこの世界に、僕たちの思考とは独立して「過去」「現在」「未来」などというものが存在するのだろうか。出来事の分節線は世界の側に無いと考えた方がむしろ自然ではないだろうか。おそらく人間以外の動物は、人間のような時間感覚を有してはいないだろう。

 時の終着点、それは記憶の果て。時間に終わりがあるのだろうかと考えた時、たぶんそれは「生」の終わりを考えている。

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