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第40回 後白河法皇(6)我が子、二条天皇との確執

雅仁親王(後白河)は1139年12月13歳で元服し、母待賢門院璋子の姉が産んだ、つまり従姉の懿子(よしこ?)24歳と結婚します。
璋子と夫婦の仲は良く、翌年春、璋子、雅仁夫婦、雅仁の姉で終生仲が良かった統子内親王、崇徳天皇の皇后聖子などで、『源氏物語』の絵巻を造らせます。その特に前半部分が失われているのが残念ですが、遺された部分の見事さに感動します。
しかし『源氏物語』は帝の后と密通する話。当の璋子も鳥羽天皇の后でありながら、白河法皇と密通して皇子を産んだのですからどういう心境で造らせたのでしょうか?その時、璋子は40歳。すでに鳥羽法皇の愛は新しい妃美福門院得子に移っていました。

1143年6月、28歳の懿子は雅仁の第一皇子守仁を産みますが、産後1週間で亡くなってしまいます。守仁親王はなぜか美福門院が養育します。祖母の璋子は2年後に亡くなるのでこの頃もう病気だったのでしょうか。美福門院の子、近衛天皇は5歳でしたが病弱で、何か考えがあったのかも知れません。美福門院は崇徳上皇の子の重仁親王(4歳)まで養子にしています。

守仁親王は9歳の時に寺に行きます。ところが13歳の時、近衛天皇が17歳で崩御。皇位継承の最有力者となります。しかし父の雅仁親王が29歳で存命であり、父を飛ばしてはさすがにという事で、今様三昧の放蕩の雅仁親王が中継ぎで即位したのでした。
一緒に暮らした事も無ければ、今様三昧の父を尊敬はできず、自分のお陰で天皇になれたと思っていたかも知れません。終生不仲でした。
保元の乱を経て、3年後に守仁親王は即位し二条天皇となります。后には美福門院の皇女姝子内親王を当て、これで皇子が生まれれば美福門院の遠大な計画が成就します。
しかし二条天皇は姝子内親王を愛しませんでした。二条天皇は先々代近衛天皇の后多子を好きであり、周囲の反対を押し切って「二代の后」にしてしまいます。多子の大叔母が璋子であり、やはり美貌だったのでしょうね。

後白河上皇と二条天皇は日増しに対立します。例えば、後白河上皇が自慢の蓮華王院三十三間堂を建立した時、二条天皇は完全に無視して行かず、「ナンノニクサニ」と後白河上皇は口惜しがっています。またある邸に後白河上皇が逗留した時、桟敷から人々の往来を後白河上皇がずっと見ていたので、二条天皇の家来が板を打ちつけて見えない様にして、後白河上皇は9つ上の清盛に泣きついて家来を追放させています。
清盛の取り合いの様な形でしたが、清盛の義妹滋子が後白河上皇の寵妃となり憲仁親王(後の高倉天皇)を産むにあたり、二条天皇の不安は募りました。そして1165年、23歳の若さで重態となり、身分の低い女性から生まれた2歳の皇子(六条天皇)に位を譲り崩御したのでした。39歳の後白河上皇はまたも闘いに勝ったのでした。

ちなみに二条天皇に愛されなかった姝子内親王ですが、二条天皇の崩御後1170年頃に亡き信西の孫で澄憲という僧と秘かに愛し合い、一男一女を儲けて1176年36歳の時、二人目の子を出産した時に産死しています。(表向きは病死)でも愛し合えて良かったですね。

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