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第60回 業平死す。

追記:源融は相当な美男だった様です。財産家で河原院のほか、嵯峨野にも別荘があって現在清凉寺になっていますが、そこの仏像は融を模したものといい、確かに美男です。源高明と並んで光源氏の有力なモデルとも言われています。また宇治の平等院も元は融の別業だったと言われています。

元慶4(880)年、業平(56歳)が蔵人頭として活躍している頃、宮中で育てられているという紀氏の「阿古久曽(あこくそ)」という9歳の少年がいました。母が宮中の女官だという事で、宮中にいたのです。この少年が後の紀貫之です。阿古久曽は業平に抱かれて持ち上げられたりもした事でしょう。若い時の宇多天皇を投げ飛ばしたりした事もあるのですから。
貫之の、業平の歌への憧憬はこの時に形作られたのかも知れません。

しかし良い事は長く続かないもの。元慶4年の春過ぎから、業平は急に体調を崩し、西山の大原野の方で養生に務めます。近くの大原野神社で高子の参詣に供奉した事も思い出した事でしょう。
最後の妻(良相の娘)や、次男滋春(13歳?)が看病したでしょうか?また死期を悟った業平は、今までの歌を集めた「業平集」を作り、妻子も協力したでしょう。
『伊勢物語』最後の第125段に辞世の歌があります。
「つひにゆく道とはかねて聞きしかど きのふ今日とは思はざりしを」-誰でも最後には行かなければならぬ道とは前から聞いていたが、我が身がそうなるのは、昨日今日といったさし迫った事とは、思わなかった事よ。

江戸時代の人も『伊勢物語』・業平を愛していて、化政文化の文人・狂歌師の大田南畝(なんぽ:蜀山人)は辞世の歌に「昨日まで人のことかと思いしが、俺が死ぬのか、それはたまらん」と詠んでいます。ただ、ちょっとパロディがきついかなあ?

さて業平は、あと10年、20年長生きすれば、参議・中納言・大臣とて夢ではなかったでしょう。異母兄行平は63歳で中納言になっています。

京都市西京区大原野小塩町にある十輪寺は、業平終焉の地ではないかとも言われています。住職さんは話すととても面白い方でした。
5月28日の命日には一度行きましたが盛大な法会が行われています。

身分柄、臨終にも行けなかった高子は宮中で嘆いた事でしょう。若い日、一緒に芥川まで出奔した事、花の宴や紅葉の屏風の前で意味深な歌を詠んでくれた事、そして我が子陽成天皇に和歌や乗馬、相撲を教えてくれた事。
もう少し生きて我が子の側に居て欲しかったというのが本音でしょう。そして京の人々も「美男で、奔放で、時には権力にも抗った屈折した歌人」として永遠に記憶に留めた事でしょう。

高子には、これから兄基経との対決が待っていました。業平の死からすぐに激突は起こります。(続く)


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