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第51回 清和天皇の譲位

貞観18(876)年2月、太皇太后正子内親王(68歳)は、自分を鍾愛してくれた亡き父嵯峨上皇の離宮が荒廃していくのを惜しみ、仏寺として整え、大覚寺としました。開山には息子の、業平と同い年の恒貞親王(この時は恒寂ーこうじゃくー法親王:52歳)を立てました。
正子内親王は父と同い年の叔父淳和天皇の皇后となり、皇子恒貞親王は皇太子となって、一時は栄誉に恵まれましたが、父の死後、承和の変が起こり、息子は廃太子の苦しみを味わいました。それを認めた内親王の生母・橘嘉智子を恨みました。藤原氏の側についたからです。

4月10日、子の刻というから深夜、大内裏の正殿である大極殿が焼亡しました。清和天皇(27歳)としては10年前に起こった「応天門の変」を思い起こさせました。当時、天災・火事などは当今(その時の天皇)の不徳のせいだと思われていました。大変ですね。

そして11月末、女御高子が大原野神社に参詣して付き従った業平と楽しく過ごしている頃、突如として譲位の旨を発表します。
ここで太皇太后正子内親王から急ぎの使いが来ます。
「早まってはなりません。藤原氏の思うままになってはいけません」
自らの苦い経験から、また藤原氏のいいようにされてしまっていると思ったのかも知れません。次はまた9歳の東宮が帝になるので。

11月29日、清和天皇は譲位を断行します。9歳の陽成天皇の誕生です。
12月29日、陽成天皇受禅の報告と業平と異母兄・大江音人が勅使となって、先代の文徳天皇陵に報告しに行っています。これを兄弟に任せる筈がないから二人は兄弟ではないと言う方がいますが、むしろ二人は兄弟というのは公然の秘密なので興があるのでわざと任じた?(面白がっては言い過ぎですが・・・)のではないかと私は思います。

その頃、天皇の代替わりなので、伊勢の斎宮から恬子内親王(29歳)がひっそりと戻ってきます。洛中には兄・惟喬親王の旧宅・小野宮があり、甥・兼覧(かねみ)王も居たので同殿したでしょうか?兄の近くの小野に隠棲したとも言われます。内親王は延喜13(913)年、66歳まで生きます。しかし没後に「業平と密通し、子まで成した」と言われるのでした。

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