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音楽って罪深い、と思うのです

日常には、音が溢れています。

乗り物の音、他人の足音、鳥の鳴き声、風の葉音。


私は音楽を聴くのが好き。「好き」と言ってもそれは専門的な意味で好きなのではなく、音楽のジャンルに特段詳しいわけでも、音や曲の深みがわかるわけでもないけれど。


それでも「なんとなくこの曲が好きだなあ」という曲を素人なりにいっぱいいっぱい集めた自分のプレイリストを聴くだけで、毎日ハッピーになれる。それが私にとっての「好き」な音楽。

歩いている時、電車に乗っている時、お風呂に入っている時。気がついたら何をしている時でも、少なくとも私の生活には必ずといっていいほど音楽がともにあるような気がします。


「匂いは記憶と直結している」とはよく言いますが、私はそれと同じくらい「音は記憶と直結している」と考えずにはいられない。


最近、プレイリストからたくさんの音楽を消しました。

プレイリストから好きな人の好きな音楽を消したとき、それは私の中からその人に対する恋心が消えたとき。


今回は、「音楽って罪だな」と、思った話。



▽鼓動のある言葉

最初に言った通り、私は音楽を聴くのが好きです。

だから日常でどのような行動を起こすにしても、そこには音楽が共にある。


私が好きなのはなにかしら、自分にとって意味のある歌詞のもの。

「意味のある歌詞」ってなんやねん、と聞かれてもなかなか上手に説明できないのですが。

文学科として日々文章と触れ合うのが日常化していた私にとって、「言葉」というものは非常に重要なものであり、だからこそふとした時に頭に入ってくる言葉にさえも、なんとなく意味を求めてしまうのかもしれません。



自分の人生を振り返った時に、ぼんやりと「自分の人生におけるデカいイベントってこれだったな」と思う出来事って、誰にでもなにかしらすでにあるのでは。

それが成人など皆に平等に訪れるイベントの人もいれば、何気ないふとした瞬間であったり、その場面は様々ではあると思います。


同じ音楽を飽きずに何度も何度も毎日聴いている私は、ふとプレイリストからシャッフル再生された音楽を聴いた時、以前の記憶が急に頭に鮮明に浮かんでくることがあります。


Camila Cabelloの”Real Friends”を聴くと、アメリカ横断の際に合計何十時間も乗ったグレイハウンドのバスの窓から見えるアメリカの砂漠の風景をみながら、「私って、本当の友達いるのかなあ」なんてよくわからない自問自答を繰り返していたことを思い出します。


GReeeeNを聴くと、大阪の中高一貫の私立中学から東京の公立高校に進学するために、周りがエスカレーター式の進学の道を選ぶ一方一人だけ受験勉強をする孤独の中、スペースシャワーTVのミュージックビデオから流れてきた彼らの曲に元気付けられていたことを思い出します。


Sara Bareillesの”Love Song” を聴くと、Bazziの"Mine"を聴くと、前好きだった人が誕生日に連れて行ってくれたタイのプーケットにあるプール付きヴィラでそれを流しながらマンゴーを食べたことを、The Chainsmokersの曲を聴くと一緒に行った彼らのライブを、EDMを聴くと別れた後Ultra Japanで雨の中キスをしたことを思い出す。書ききれないほど、思い出す。末期ですね。


未練がゼロの今でこそネタにできますが、前は大変でした。

だってこんなに思い出してしまう曲がたくさんある中で、しかもその大半が毎日聴いていたような大好きな曲たちである中で、「私は一体これから何を聴いたらいいんや」と思いながら日々を過ごしていた。


日本語の曲よりも英語の曲を聴くことが多かった。
小さい頃から英語に対しての親近感をマックスに持つ中で、自然と英米文学専修として学ぶ道を選んだ自身の過去の選択が仇となるなんて。
英語を理解するスキルこそ右肩上がりに上がっていく学生生活を送る中で、やっとほとんどの歌詞を耳から理解することができるようになった今。

改めて、本当に当たり前のことに改めて気付きます。

この世の中、恋愛に関する曲ばっかじゃねえか。なんやねん。


愛の形は様々ですが、もうそれはそれはほとんどの曲が「僕の好きなあの子」だの「私の素敵なボーイフレンド」だの「一生離れないよベイビー」だの「君のすべてが愛おしい」だの。

失恋系で攻めてくる曲なんかは、「一緒にいる時にもっと大事にすればよかった」だの「他の人の隣にいる君」だの、「今は君の笑顔は僕のものではないけれど」だの、心の痛いところにダイレクトに刺さってくるんですね。


もう本当に頭が狂いそうになるぐらい。人類、恋愛に翻弄されすぎです。


私も例外ではないけれど。もちろん毎秒手のひらで踊らされています。

嫌いなダンスの授業を蹴って体育の単位が危なかった私、きっと手のひらで踊ることに関してはダンス部の追随も許さないでしょう。



▽新しい音

だから私は今まで好きだったほとんどの音楽を聴くことをストップしました。
その代わり、新しいジャンルの音楽に手を出すようになった。

Soundcloudでミックスされた音楽を聴くようになったのも多分その頃で、音楽にChillという系統が存在していることを知ったのもその頃だったと思います。今まで好きだった緩やかなラブソングの代わりにヒップホップを聴くようになり、ラップも聴くようになった。今一番好きなのは前は一切聴くことのなかったR&Bでもある。


今では昔好きだったラブソングを聴いても涙が滲んできたりはしません。むしろ、自分の「好き」に新たしい仲間が加わったと思えばあのつらかった時期も無駄ではなかったのかななんて思ったりもします。



音楽は記憶に直結している、と言いました。

だからこそ永遠に音楽を流している私のような人たちにとって、自分のお気に入りの音楽と切ない記憶が紐付いてしまうのは本当に辛い。

好きだったものが、人が、土地が、自分の手から離れていくとき、音楽たちにはなんの罪もないにも関わらず彼らは平気で私たちの耳を、心をジリジリと傷つけていく。

それでも私は懲りもせず毎日音楽を聴く。

過ぎ去っていく日々の中で、ほとんどのものが新しい記憶に上書きされてどんどん忘れ去られていく中で、私たちの記憶をふとした瞬間に蘇らせてくれる音楽の存在って、しっかりと大事にしないといけないと思うから。


確かに彼らは私たちを切なくさせたり、時には傷つけることも悲しい気持ちにさせることもある。でも同時に、幸せだったときの気持ちを思い出させるツールでもあると思います。

切ない気持ちにさせるのは、きっとその音楽が思い出させた当時がとっても幸せなものであったからなのではないでしょうか。

たとえ今はその音楽を聴いてブルーな気持ちを感じているとしても、当時の私はハッピーだったはず。時が移り変わるのと同時に私たちの気持ちも移り変わるのなら、1年後はまたその曲を聴いてハッピーになるのかもしれない。



「音楽って、罪だと思うのです」とタイトルにしました。

音楽って罪だと思う。本当に罪深い。

だって息もしてないくせに、時には私たちの息を止めるぐらい切ない気持ちにさせたり、時には息をするのも忘れるぐらいハッピーな気持ちにさせたりするから。


彼らの「罪」は、決してマイナスな意味だけじゃない。

なにかこそばゆいけれど嬉しいことをされたとき「あなたって本当に罪深いね」と笑って大好きな友達に言うように、私は今日も好きな音楽を流しながら、私たちの心を弄ぶ音楽の罪について考えるのだと思います。

最後まで読んでくださりありがとうございました。



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