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ヴォネガット「スローターハウス5」

カート・ヴォネガットの本はこれで2冊目。最初は「タイタンの妖女」を読んだ。去年、上石神井のブックオフで買った。

この作家を知ったきっかけは村上春樹である。若い頃の村上春樹はカート・ヴォネガットとリチャード・ブローティガンから影響を受けているという記事をよくネットで見たのだ。

確かに、ブローティガンとヴォネガットの読後の後味は似ている。サクサク読めるようで、あまりページが進まない。そして何が書かれていたのか覚えていない。例えばヘミングウェイなんかは、スラスラ読めて、文章も全て頭にクリアに入ってくる。しかし上記の2人は、良くも悪くも散文なので、勢いがぶつ切れになってしまう。短い小説を書く人の弱点とも言える。
 こう書くとつまらん作家みたいだが、そういうわけじゃない。
ああ、ヴォネガットかブローティガンみたいな文章が読みたくて仕方ない!という時期が定期的にやってくる。文学というのは世界の色々な作家達による微妙なバランスで成り立っているんだといつも思う。ヘミングウェイを読んだ後に、スタンダールを読む気にはなれない。逆に、ブローティガンを読んだ後にヴォネガットを読む気は起こらない。ブローティガンを読んだ後なんかは「うんと難しくて長い本をくれ!」となってしまう。周期があるのだ。

今回1年ぶりにヴォネガットを読もうと思ったのもその周期が巡ってきたからだった。

スローターハウス5を読み始めてすぐに「そうそう、この人こういう書き方したよなあ」と懐かしくなった。旅行でちょっと立ち寄っただけの町を、数年経っても何かと覚えているような感覚だ。

ヴォネガットのような作家を知ると、「面白い小説はすでに出尽くしている」という考えを払拭してくれる。どんなテーマからでも「小説風」に仕立て上げることができ、それはもうほとんど小説なのだ、と教えてくれる。

YouTubeでヴォネガットが大学生相手に講演している動画を見た。相当なおじいちゃんで何を言ってるのか分からないが、体の隅々までユーモアの血が流れていることだけはわかった。真顔でボソボソ喋り、突拍子のない単語を小出しにする。僕は1単語も聞き取れなかったけど、なんだか可笑しくてつい鼻で笑ってしまった。そういう姿勢はヴォネガットの小説そのままだ。

今回のキーワードになっている「そういうものだ」。実はこの本を読む前にAmazonでレビューを見たのだが、みんな揃って「そういうものだ」とコメントしていた。多分これが話のキーになっているんだと思って読み始めると、予想の10倍くらい言っていた。この言葉は何かが死んだ後に付け加えられる。戦争の話でもあるので、例えば戦死した知人を見たときに「知人が死んだ。そういうものだ」という感じで使う。

こういう言葉遊びをする作家ってあんまりいない。読み始めは所詮ウケ狙いだと思っていたが、気づくと「そういうものだ」がいつ来るのかワクワクしている自分がいる。ページの最後に「そういうものだ」が見えると、あ、誰か死ぬんだと思う。ヴォネガットは勘が鋭い人だ。

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