見出し画像

フォークナー「八月の光」

ノルウェイの森でワタナベが、また勝手にしやがれでジーン・セバーグが読んでいたことから、フォークナーが気になっていた。

本屋に行って何か1冊買おうという時、その時の気分は2つのどちらか。
軽いのか、重いのか。

フォークナーを買った日は「重い」日だったのだろう。軽い日なら、例えばブコウスキーとかヴォネガットということになる。

「八月の光」を買ったのは11月頭。読み終えたのが先週。長編一冊に2ヶ月以上もかけてしまった。

というのも、読み始めから中盤辺りまで、全くページが進まなかった。かなり読みにくい印象を受けた。主語が誰を指しているか分からないので、相関図を書いて照らし合わせながら読んだ。会話文の脈絡が微妙に無いし、時制は飛び飛びだし、何より、登場人物の誰にも共感できない。だから八月の光を読み終えてないのに、家の本棚にある昔読んだ小説を読んでいた。これはできるだけやりたくない。読み切る前に他の本に手を出すと、それまでの内容は忘れるし、自分の集中力のなさを実感してしまうから。

でも12月の終盤くらいからだったっけ。急に「重い本しか読みたくない状態」になった。例えば島田雅彦を読むとする。すると、「なんだこの軽い小説。こんなん読んでたら自分までダメになるぞ」(失礼!)と、腹が立ってくるのだ。庄司薫、ブローティガン然り。好きな作家なのに、この「重い時期」に庄司薫を読むと、その本が自分に何も与えてくれないと思ってしまう。

音楽についても言える。オフコース、吉田拓郎、南佳孝、全部好きだ。でも重い時期に聴くと「これじゃ俺が成長しないな」と思う。逆にピンク・フロイドやカーティス・メイフィールドなんかが染みる。


重い時期に読むフォークナーは、ぐんぐんページが進む。一見複雑な文章でも1文1文を理解しながら読み、それを続けていけば50ページ分読んだ後でも大体理解できている。その集中力がクセになる。

結局「八月の光」の半分は1週間もかけずに読めた。一気に読んだので、内容もある程度理解できた。

そして八月の光を読んで1つ変化が。この手の小説を読むと次は休憩として軽い小説が読みたくなるのだが、今、同じような重めの小説が読みたい。八月の光の後半の集中が心地よかったせいだ。歳をとることで、自分の読書の趣向が少しずつ「長く、難しい」ものへ変わっているのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?