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【怪文供養】『死に時を感じたあの日』

「はじめに」2023/5月

 小説投稿サイト「カクヨム」において、非常に活動初期の頃に投稿していたエッセイ・現代ドラマが『死に時を感じたあの日』だ。
 
 内面的な上に稚拙なので、長らく非公開にしていたが、幸いにしてnoteでは怪文書まがいのものを幾つか掲載してきたので、ここに埋葬したいと思う。
 
 あくまでも自分の想いから端を発したものではあるが、その精神状態ゆえに、現実と空想の境目は曖昧で、久方ぶりにコピペしつつ、読み返したが、どこまでが本気なのか、もはや自分でも判別不可能。
 それにジャンル設定はエッセイではなく「現代ドラマ」であり、あくまでもフィクションとされているので注意が必要。
 
 そのため、今このように再びサイトを変えて投稿しようとも、この記事を読まれることは期待していないし、ネガティブな内容なので読むべきでもない。

カルト的視点でホームズを愛好していた僕が、自分の足で歩みだし、全てを終わらせようと思ったあの日。
この世に救いはあるのだろうか。
ひたすらに苦悩と虚無にまみれた思索。
何とか振り払うため、今日も自分と議論する。
主人公への社会不適合の烙印を、完成後に読者が決める事で大成する。

【キャッチコピー】
生きづらいと感じる貴方へ。非凡にも平凡にもなれない男の苦悩の日々。

本稿の紹介文等

 良くも悪くも、非公開にしたのは、いわゆる「完結」を迎えなかったからでもある。
 だが、時を経て読者側にまわった現時点から言っても、「主人公」は社会不適合者だというほかない。

 あの時の感じたのであろう<死に時>は、確実に思い違いであった。
 
 文字数にして約1万2千字。誰のためにもならない文章などは、物書きとして葬るべきではあるけれど、この主人公を肯定し、それをもってようやく成仏してもらいたいと思う。

『死に時を感じたあの日』2020/4~6月

<死は救済>

死は本当に救済なのか

 僕は小学校高学年の頃から現在にいたるまで、コナン・ドイルの生み出した天才、シャーロック・ホームズに愛想を尽かした事は一度もない。それどころか、ある種の崇拝的視点でもって、《《聖典》》を読むタイプのホームズ愛好家《シャーロキアン》だった。

 特に一番顕著だったのは、恋愛に関する《《思想》》だった。あえてここで「思想」としたのは、「行動」と切り離して考えていただきたいからだ。

 『訓練のゆき届いた推理家にとって、細心に整頓されたデリケートな心境のなかに、そうした闖入者ちんにゅうしゃを許すのは、まぎれをおこさせるものであり、その精神的成果のうえに、一抹の疑念を投ずることにもなるのである』
 ここでいう闖入者とは「恋愛感情」に他ならない。またこうも書かれる。

 『鋭敏な機械の中に入った砂一粒、彼のもつ強力な拡大鏡に生じた一個の亀裂といえども、彼のもつような天性のなかに、激烈な感情の忍びいった場合ほどには、面倒な妨害となることはあるまい』と。

 和製ホームズを人生の最大・最終目標と掲げた僕にとって、これは無視できない考え方である。
 しかし、生涯独身を貫いた彼だが、僕にとって、恋愛感情を抱いた際の対処法はあった。

 上記の文章は『ボヘミアの醜聞』という作品の冒頭にあり、ワトソンの語りで、読者はホームズの禁欲さを知る。これはネタバレとなるが、有名な話だから書いてしまう。
 ホームズはこの事件の犯人的人物「アイリーン・アドラー」に敗れる。そして彼は以前から、いささか女性を冷笑的に捉えていたが、考え直し、アイリーンを「あの女性《ひと》」と呼び、特別扱いをする。

 つまるところ、「あの女性」という特別枠を生み出すのは可能なのだ。

 そして話は現代へと。
「好き」と明確に思っているか、と問われればそうではない。しかし、仲良くしたいと思った異性が現れた。あえてここではアイリーンと表現する。
 僕はアイリーンと何故か「お茶」したいと思った。
 幸い、アイリーンもそこまで悪くは思っていなかったようで、快諾してくれた。内容は何てことのないお茶だ。

 むしろ重要なのは、家へ帰ってから、落ち着いてから思索に耽った時に、やりきった感とでも言おうか、「現実的」QOL向上の究極・至上を果たした、という幸福感があった。

 しかし裏を返せば、それ以降、精神的快楽は低下を味わうということであり、僕の人生は悪い意味で、これ以上の幸福は無く、後は嫌なことが増えるだけに他ならない。
 まさしく、耽美と退廃の両方を味わった1日となったのだ。

 僕は死に時を痛感した。
 しかし僕は生きている。良くも悪くも死ねなかったのだ。
 では、あの日以来、僕は地獄の毎日かと言えば、一概にそうは言えない。

 無論、精神的に辛い事は絶えない。
 しかしながら、あの日以降、今ではある種のバイブル的作品、石山雄規先生のライトノベル『パンツあたためますか?』を知ったり、某YouTuberを知り、生配信で会話?をしたり、そして何より、今こうして本当にしたい事【小説を書く】に気付くことが出来、その上、好評すらいただいている。

 今思い返せば、アイリーンとお茶するという選択肢が発生したのも、『今年こそは色々な事に挑戦したい』と考えて手始めにTwitterを開始した事からの余波・恩恵なのかもしれない。

 ホームズは神ではなくなった。しかし、古くからの友人として、彼と語らう。
 そうして僕は、今なお、この世をさまよう。次なる《《死に時》》を求めて。

死はやはり救済かもしれない

 『かすり傷を負ったら、即人生リタイア』という心意気で、僕は今を生きる。
 辛いことがあれば、すぐ逃げるとそう決心していた。
 死へのハードルを徹底的に下げる事で、自分の命を人質・生け贄にし、その代償として自由を享受し始めたのだ。

 これは捨て身とも言うべき態度であり、本来はそう簡単に実践出来ない。
 しかし現在、感染症の爆発的流行に際し、《《自粛》》が求められている。それ故に僕は、外部からのストレスが軽減され、今なお、生き長らえている。

 つまり、現時点での危惧すべき事態とは、僕が病人になる事よりも、自粛が解禁・解除された時の事だ。
 濁流の如く押し寄せる、社会からの要望。常識という名の宗教によって、再び荒行を強いられる日々。

 だが、出来ることなら、9/18までは生きたい。この際、寿命などの観点は度外視する。理由は案外ショボい。

 僕のバイブルのメインヒロイン『北原真央』の誕生日に、最期の晩餐よろしく、彼女の好物、オムライスを食べる。そしてそれを投稿するが楽しみなのだ。いつしか真央ではなく、自分がヤンデレ化していたようだ。

 死に時を常に窺い、そうかと思えば、死を盾にして社会を覗き見、あげくの果ては、二次元キャラへの幻想を具象化させ、死を迎えたいという血迷い事を語る始末。
 末期だ。社会的に見ればもっと酷い人はいるかもしれない。しかし、安全圏にいるか、と問われればおそらくそうではないだろう。

 僕は求めているのだ。何かを理由に、人生から《《離脱》》するのを。
 死に時とは、幸福の絶頂を大抵の場合意味する。
 繰り返すが、僕の理念では、辛い事が起きたら、即終わりを迎えるつもりなのだ。
 これは、幸福だろうが、そうでなかろうが、死を、完全なる終結を欲しているのだ。

 9/18までに、幕を下ろすのは十分あり得る事だ。何ならこれを書き上げた後には、うつし世から、かくり世へと渡っているかもしれない。
 命は尊いものという幻想を越えた先に、真の自由がある。これだけは確信している。

精神衛生は時間にこそ翻弄される

 いつもそこには《《あの娘》》がいた。同じような夢を、僕は2日続きでみている。フロイトには言いたくないような、甘くも、どこか頽廃的デカダンスなあの夢を。

 一度目は、小学校に何故か再訪しており、そこで出会う。《《あの娘》》は同じ小学校ではないからか、当初は別の女の子と談笑していた。いつの間にか、人は代わり、僕はあの娘を後ろからハグする形で抱きついて、両手を握りあって、学校中を歩き回っていた。異様でもあり、カップルなら、痛々しくも感じさせる行為だ。
 僕はあまり多くを語らなかった。ただ十字架の如く、彼女の背後にそびえ立ち、寄生させるが如く、彼女の動かす手と同じ方向に、自分の手も運んでいった。

 二度目は、彼女を知った高校生の頃とおぼしき、教室内だった。グループワークのような雰囲気で数名が机を合わせ、各々が語り合っていた。
 僕の左横には彼女がいた。今度は最初から彼女なのは、時間軸に相当しているからだろう。
 彼女はいつも通り、どこか眠たそうにしていた。そんな時、彼女が僕に問う。
「晩ごはんは、別々に好きなものにしよっか」
 何の話だ。一瞬そう思ったが、やはりこれは夢。ご都合がよろしく、すぐさま、夢をみる以前に起きたであろう擬似記憶が、僕に語りかけた。僕は彼女と夜中の0時まで勉強するらしい。
 たしかに彼女の机に乗ったノートにも、その予定が書かれている。えらく勉強熱心だな。

 少し残念だが、学校から出ることなく、僕は目が覚めた。毎夜同じ人間が出るとはどういう事か。深層心理はいざ知らず、世間一般では、恋愛感情の表れと言われるだろう。
 だが、多くの恋愛と違って、僕は言葉を持ち合わせない。言い換えれば、話す機会は作れても、話す内容は、前回のお茶会で話尽くした感がある。だからこそ、死に時も感じ得たのだ。

 しかし我が精神は、太陽が再び暗闇を照らす度に、何とか思い出させようと働きかける。迷惑千万である。
 自らの理性や感性、そしてこれを聞いた大衆までもが、ただ一点のみを問う。『どうするのか』と。
 しかしこれは、答えを先伸ばしたからこその結果であり、そもそも、正真正銘の夢物語に時間を割くほど、《《人生ガチ勢》》ではない。

 僕は気付いた。今の僕は、他ならぬ『生』に執着してはいないか?無論、厳格な宗徒的意味合いで、そう疑問を呈した訳ではない。《《あの死に時》》が否定されはしないか。
 その一点が、僕の脳裏にどこからともなく現れた。

 僕は気を紛らわすべく、積み上がった文庫本の、一番上にあった本を読み始めた。次第に活字へと没入するのを合図に、多くの悩みの種が、諦念にも近い何ものかが、それらを片隅へと押しやり、安堵と教養が高まっていった。

 僕にとっての駆け込み寺は、読書か二次元だ。その時の深刻度によって、行き先は変わる。読書をしている今は、自らの精神史では、軽症だと言える。

 ふと僕は『安楽死』について思いを馳せる。安楽死とは、とりもなおさず尊厳死であり、何の尊厳かと言えば、人間としての尊厳を保って、死を選ぶという事である。日本では未だ認められてはいない、医学的自殺。

 社会通念上、自ら命を終えるのは、良しとされない。だからこそ、三十六計逃げるに如かず、読書とアニメに日がな沈潜し、夢をみる度、思案に暮れる。

苦痛よ、さらば。諦めよ、こんにちは。

 「もう苦しい思いをしなくてもいいよ、この世界に元から意味なんてないんだから」

 僕はこの言葉を依り代に、諦めをいざなった。
 この言葉は正しい。仮に社会的道徳倫理が完全に正しいのであれば、とうの昔に各国万民は、すべからく同じ宗教に帰依しているはずだ。何らかの価値基準を後付けしなければ判断出来ない人間による、ルール制限のない「人生における勝敗」という矛盾が、未だ蔓延る、今日この頃。
 精神的苦痛は代表例。身体的苦痛に、知能はいらない。しかし、精神的苦痛は、その人間が生きていく上で身に付けていった、様々な価値観に基づき、それをないがしろにされたが故に感じるのだ。

 しかし、達観でさえも、実は気休めに過ぎない。現実が辛いものであるのは、もはや証明を必要としない。だが、ネットだけは、リアルで言えない事も気にせず語れ、あまつさえ賛同すら貰える。
 それが今やどうだ。斜陽族よろしく、ひたすらにQOLを支える、それらネットの反応が水を打ったように静まり返り、この世のどこにいっても、賛同者はいないどころか、耳さえ貸してもらえないこの零落ぶりには、心底呆れる。
 言論統制は行わずとも、人の発言がこうまで無価値と化すとは。ネットは下剋上のチャンスが多い反面、底辺へと落ちぶれるのも容易い。もともとネットにしか、本心を羽ばたかせる事が出来ない、二元論者は、その教示の通り、現世で辛いのはおろか、天国ではなく、地獄へ行かないとも限らない。

 ただ一切は過ぎ去っていきます、と太宰が書いていたかと思うが、それはまごうことなき真理であり、またそうである以上、善悪を問わず何事にも作用するのだ。
 かりそめの桃源郷を垣間見た僕は、ただただ、この変貌に驚嘆し、動揺する精神を沈める術を失ったが故に、時のみに委ねるしかなかった。

未知への不安

 『浮世』という字面通り、およそこの世に生きている間に、精神の浮き沈みを感じない時はない。であるならば、黄泉國・根之堅洲國ねのかたすくにや天国・パラダイスと呼ばれる場所は、おそらく完全なる平穏無事、なんの起伏のない空間なのかもしれない。

 しかし、ある程度の場数を踏めば、そして病を患っていない、ある程度の思考力さえあれば、開き直りという処方薬を得ることは難しくない。

 僕はどうなのか。よかれあしかれ、開き直りを意図的に身につけ、後天的ポジティブさによって、何とか生きながらえている。先にも述べたように、〈かすり傷がついた時点で、人生リタイア〉するくらいの、一触即発状態にいる僕は、「初めての人生なのだから、完全な正に拘らず、暗中模索しよう」と考えている。

 そんな僕にも、ストレスの原因分子が、最低でも一つある。

 未知への不安

 これは何も壮大なものではなく、むしろ直近に迫られたもの、避けられない面倒事に対する不安である。

 行ってみるとたいした事はなく、次回からはストレスを感じないであろう事も少なくない。また、病的な不安感もないため、人生への害も生じはしない。

 各方面で例えてみよう。
 まずは履修登録などはどうだろうか。高卒や読者が未経験であるなら、別にあげる例えに注目してもらえると助かる。
 苦を感じない学生の方が少ないであろう、履修登録。無論、渡される書類を見れば、求められる行動は明記されており、また、履修登録を原因に、留年・退学するケースは実際それほど多くはない。
 しかしだ、自分の行動に間違いはないはずなのに、感じるこのストレス、これこそが未知への不安の一端と言って然るべきだ。

 4回生までいって、今さら未知ではなかろうと考える方もいらっしゃるはずだ。だからこそ、この抽象的不安感を列挙する必要があるのだ。

 大学の話をしたので、続けて今日こんにち、行われようとしているWEB授業はどうだろうか。
 新入生に限られるかもしれないが、パソコン世代でなく、レポートの提出経験のない、LINEの普及により、メールを送信した事もない若者は極めて多い。そんな彼らにとって迫り来る期日、避けられない現状こそ、未知への不安であるのだ。

 瞬間的未知への不安は、電話の着信音も例に挙げられるだろう。電話での応対そのものは別段難しくないのだが、何故か、突如かかってくる電話、無機質に響く着信音に、心拍数は高まる。この場合、心霊を取り扱うエンターテイメントでもざらに使われる手法であるため、純粋に「未知への不安」と語れるかは微妙でもある。

 深刻な問題ではないのに、確実に期限があり、焦燥感が急激に高まっていく「未知への不安」という感情。

 生きづらさの克服は、この点に大きく委ねられている。

儚い人との繋がり

 2020年5月4日
 僕はこの日を生涯忘れないだろう。

 この日はホームズ愛好家、いわゆるシャーロキアンにとって、『最後の事件』が発生した日でもある。
 先だって述べたように、僕はTwitterを始めた訳だが、ふとした際に、このような呟きを読む。

「一緒に最後の事件を実況しよう!」
 とある有名な団体の呟きであるが故に、賛同者も多く、僕もタブレットをスマホの横へと設置し、参加表明をした。

 そして時は満ち、全国一斉に鑑賞会が始まった。様々なコメントが流れ、僕も負けじと連投する。すると、一瞬にして、数名の人が賛同の意を示してくれる。僕はある種のハイ状態になったように、感想を述べてゆく。

 あっという間に2時間が経ち、ランナーズハイの如く、興奮状態は収まるところを知らない。一緒に《《駆け抜けた》》彼らに感謝を伝え、他の人の感想を見始める。
 彼らもまた、テンションは上昇し続けているようで、続きを観ている人も少なくない。

 初めてこれほど多くの人間と、ネット上でひとつの事をした。
 現実社会より、ネット社会こそ、自らを昇華させる事が出来るという、二元論的世界観はより一層確実な論理となったのだ。

 実社会への諦めを促進する一方で、こういう日の為だけに行き続けている。もはや実社会には何の期待もなく、真の意味での《《下剋上》》は、ネットでしか完遂出来ないのである。
 自ら甘んじて、二次元の住人へとなり、理想に一番近い場所で死にゆく。
 イデア(理想)について考え抜いたプラトンの最期は、虱《しらみ》だらけであったように。二元論における「貴い社会」で、幸福を享受するには、実社会で諦めざるを得ないのである。

 そもそもホームズは19世紀末のロンドンという、縁もゆかりも無い世界の住人である。しかし、世界の二元化は時空間を超克し、人の心を豊かに、安らぎを与える。

平穏にさえも、恐れをなす

 「未知への不安」これは、僕の精神に多大なる波紋を広げる。
 しかし、以前にも言った通り、この不安は《《未知》》に対して湧き上がる感情であり、克服と言うよりも、風化させることは可能である事は明白だ。そう、《《既知》》となれば良いのだ。

 万物の始まりの季節、春。新たな門出は否が応でも訪れ、人生というRPGゲームは、次から次へと、試練《クエスト》を課す。難易度が高いとまでは言わないが、買いたいとは決して言えないクソゲー。神は余程の鬼畜ゲーマーとみえる。

 アニメや小説と現実を混同している訳ではないが、共通点は「転」があることだ。如何に不安の対象を体験し、既知となっても、よかれあしかれ、森羅万象を理解する事は不可能だ。如何なる図書館と言えども、全ての書物を所蔵できることはなく、仮に電子書籍として実現しても、その情報・物語を吸収する事は、戦艦一隻で宇宙艦隊を倒し、航路が不確かなイスカンダルへ向かう事よりも困難である。

 つまるところ、未知は背後どころか目の前に常に存在する。既知から得た安心感など仮初に過ぎず、むしろこの平穏無事な様とのギャップが苦しみとなる事の方が経験から《《知っている》》のである。

 しかし、僕は今生きたい。これは当然のようでそうではない。人生に対し、ある種の絶望を感じながら毎日・毎秒を生き延びる僕の存在は薄れてきているのだ。生き続けることに執着し、生活の質を向上しようと、これはとりもなおさず小説の人気やネット世界における友好関係の構築に委ねられているのだが、その事のみに奔走しているのだ。これこそ《《未知》》の領域であり、最後の現世との繋がり。綾波レイにはエヴァに乗り、使徒を殲滅することこそ、「絆」であるのと符合する。
 極めて危うく、脆い。そうでありながら可能性と希望というまやかしが、賭けを辞めさせるという判断を葬り去る。
 仮に小説が公的に認められたとする。では僕の本業は作家なのか?十中八九・九分九厘そうはならない。それでも100%と言って捨てきれないところに、社会的下剋上の可能性、もっと言えば「自分という存在は確かに存在し、その上、天賦の才も持つ」という客観的論拠と成り得るのである。

 自分の実力が影響する宝くじ。それが僕にとっては執筆であり、それを見出した僕は、クソゲーを必死に攻略しようとしている。

シュレディンガーの苦悩

 僕にとってメンタルが病んでいる、疲弊している時とは、ざっくばらんに言えば、肉体労働をしている時。もっと言えば、自分の意志ではなく、社会・家庭からの要望で、何かに取り組んでいる時でもある。逆に、簡潔に言えば、運動ないし、元気ハツラツな行動をとらされている時が、僕にとって辛い時である事が多い。

 例えば学生時代のアルバイトやスポーツ系部活動は、まったく自分に適合しない。言葉通りの社会不適合者であったことを何度知らしめられたことか。
「行きたくない、行きたくない」と気温を問わず震え上がり、好きな曲をその都度流しているせいで、『慰めの曲』よろしく、あらゆる苦悩が歌手の歌声、あるいはヴァイオリンの弦の音のすぐ背後に響き渡っていた。
「表情フィードバック仮説」を取り入れ、ひきつった笑顔は、誰に見せるともなしに、虚空へ向けられ、効果の有無が判明する前に、真顔へ自然に戻っていた。

 社会に求められて、ひきこもり的生活を送っていたために、人間との衝突を忘れていた近頃の僕にとって、突然向けられた憎悪ほど、精神衛生に悪いものはない。たが、ネットのメリットでありデメリットたる、簡単に、関係を終わらせる事ができる、という側面を十全に理解していた僕は、河の決壊を防がんが為に、有益な議論でない、これ以上、新出議題がない事を悟った僕は、初めてブロックした。
 ブロックすればこちらに介入できない反面、こちらからも介入できないのである。ややもすると、度々見かける、ブロック画面が晒されているかもしれないなどと、少しばかり不安も感じたが、畢竟《ひっきょう》、結果良ければすべて良し。観測できない事象に対し、精神を乱すのは、「ここに幽霊がいるかも」や「もしかすると、地獄行きかもしれない」などという焦っても致し方ない事柄なのである。シュレディンガーの猫よろしく、非難を浴びる世界線があろうとも、僕自身がそれを観測しない限り、それは確率論に過ぎず、現象ではないのである。
 であるならば、なんら非を感じずに、幸福度を高め、したい事のみをできるだけ行う。これこそがある種の「嫌われる勇気」なのかもしれない。

聖戦ジハードの夜明け

 僕はこの期に及んで人並の幸福が得られるとは考えていない。だからこその執筆活動。幻想郷の創造主としてのみならず自らの苦悩でさえも活字に変態させ、コンテンツ化させることで、この悩み・悲しみ・怒りでさえも無駄ではなく、見ず知らずの方から応援してもらえるという、曲がりなりにも作品と昇華させるのだから。社会不適合さをあえて書くことで、人との繋がりが生まれる。何も手を貸す必要は無く、ただ共感するだけでいい読書という行為だからこその現象。それも購入する必要も無いコンテンツ。
 だからこそ僕は知っている。消費者は主人公の成功・復活を待ち望む反面、むしろ苦悩している様の方に価値を見出し、何の予感もなく、僕が下剋上を果たしたとすれば、その途端に、嫌悪に近い感情が僕めがけて襲ってくるということを。
 しかし、マンネリズムに陥っては元も子もない。僕はこの苦悩をコンテンツ化させながらも、着実に返り咲かなければならないのだ。悩むだけなら全人類が行っているのだから。
 死に時はとうの昔に過ぎ去り、ただ単なる平々凡々たる自殺しかできないのならば、むしろ社会不適合さを利用して、徹底的なまでに自己陶酔し、自分の幸福度をいかなる手段を用いても上昇させ、読んで字の如く、《《死ぬ覚悟で》》執筆やその他様々な行動をしていきたい所存。
 勝てば官軍負ければ賊軍。錦の御旗を持つもののみに大義名分はあり、怒りを感じたならば容赦なくブロックアウトしていく。この嘆きの先に幸福があるのだから。大衆ではなく、まず第一に自らを『我が闘争』を執筆することで洗脳し、軸を生み出したあのヒトラーのように、所信表明・将来展望をひたすらに語りつくす。失いつつあるもの、既に消え去ったものを取り戻し、新たなものでさえ手に入れるために。

 時折考えることがある。あの時本当に強制ハッピーエンドを迎えていたならば、こうも疲弊せずにすんだのかと。主人公がそもそも引っ越さなければ、雛見沢村のオヤシロ様の祟りにあわずに済んだのだ。だがそれは反対に、旭丘分校への編入を避け、「にゃんぱすー」という挨拶を交わさない世界線を選んだ、つまり、自分から平和を捨てている可能性もあるのだ。
 僕も芥川龍之介や太宰治のように、作家であったが故の感受性で、死に時ではない自殺をするかもしれない。しかし、唯一の自己表現の場であり、世界との絆である「執筆」を早々手放すことはもはやできない。

 そんな僕に差し込んだ暗い影。たまさか得られていた平和であることを否が応にも思い出し、辛かったあの日々がフラッシュバックしてきた。執筆とて万能ではなく、この先待ち受けているであろう災厄への次なる手段を講じなければならない。死に時を感じて死にたいならば尚更だ。後戻りはもうできない。旧式の、世間に流布されているストレス発散法などに時間を割くのではなく、執筆のような、自身の一部を確固たるものへと進化させるような、一種の荒療治・自傷行為を進んで行わなければならない。

 無数の手は僕の没落を望むかのように、そこここに潜み、機会をうかがっている。これは僕の遺書である。死後、彼らの思い通りにはさせないための告発書。もどかしい世界であることを再確認し、再出発するのだ。

147・219

 近頃の僕はすこぶる好調で、人生への嫌気はどこへやら、日がな一日、読書にゲーム、アニソンやクラシック音楽を流しては、執筆に取り組むという高等遊民ぜんとした生活態度であった。
 しかし僕はあることに目を避けている。いずれこの生活は瓦解《がかい》し、勤労青年として、労働に学問というある種の大正教養主義者的な、それでいて見方を変えれば、時計に縛られ、執筆はおろか、むしろ読書でさえもろくに出来ない日常がすぐそこにまで、それも目と鼻の先ではなく悪質にも、自らの影に紛れて近寄ってきているのだ。自室で完結できない日常。世間に《《お伺い》》しなければならない閉塞的自由。今の生活を再開できるのは果たして何か月後なのだろうか。胸焼けするまで僕はこの甘美な空間に甘えきりたい。

 ところで、「147」「219」とは一体何の数字なのか。データに意味を見出せなければそれは情報とは言えない訳だが、これは日数に関する数字だ。今日・2020年5月26日は今年に入ってから「147」日も経ってしまった日なのだ。そしてまた、「219」日後には、慣例的に神に所信表明し、混雑に身を置く代金さえ払っていることだろう。閏年なので今年は366日ある訳だが、もう「219」日しか残っておらず、時計をふと見れば、それももう終わろうとしている。
 僕はこの五か月で何をなし得たのか。人生にどういう新たな影響を与えられたのか。手元の日記帳のページを繰れば、明確にそれが判明する。
 一月にはドラマ「太平記」に影響を受け、後醍醐天皇に惹かれ、実際に奈良県吉野にある南朝皇居へ足を延ばし、友人とアニメ「ハイスクール・フリート」の劇場版を観に出かけた。
 そして二月には、忌み嫌う労働に力を入れ、その代償として精神的活動の一切を停止を余儀なくされる。とある神社の近くにある大きな池のほとりを歩いた時、そのあまりの幽玄さとアニメ「ヨスガノソラ」のラストと重なり、「安泰が手に入らぬならば、たった独りの世界でも、黄泉の国でも構わないから、《《この日常》》を変えてくれ」と祈ったぐらいだ。「自殺する勇気」という表現が許されるのであれば、その時の僕には、欠片さえも持ってはいなかった。
 そんな僕が、今となってはどうしてだか忘れてしまったが、二月の終わりに、Twitterを始めることとなった。
 多くの人にとって、「それがどうした」と言われかねないが、生涯することは無いだろうと高をくくり、文字通り「独り」で生きることとなりかけていた僕にとって、ネットでの新たな世界、それも自己表現が許せれ、それを求められるこの世界に、今では心底、救われている。思えば、この殻を破った行為が、後に新たなものへ挑戦する土壌を育んだのは、事実だろう。

 そして「死に時」を初めて感じるに至った、有体に言えばデートを三月に行う。言い訳がましいが、別段、異性関係はそれほど悲惨でもなかったのだが、書いたと思うが、デートとしては十分成功だったのにも関わらず、「今日以降、この子とは一生会うことは無いのだろうな」と痛感したことが一番の原因だと思う。それからしばらくはその余韻なのか、はたまた思い出の美化・固執なのかはあえて分析しないが、数日にわたって、思索に耽ることとなる。
 それ以降、幸福なことに、Twitterを通して、様々な人や作品に出会えたのも事実であり、死に時と言えども、死ななくてよかったのかもしれない。

 そして四月、カクヨムという場を知り、小説を投稿し始める。これは、我が人生において、大いなる柱を得たことを意味する。
 そして今や、具体的な将来像を箇条書きし、そのシナリオを改稿しつつも、遂行できるように地道に今日を生き続けている。
 最初に書いたように、この脆弱なメンタルの持ち主は明日にも死ぬ可能性は十全にある。だが、進んで死のうとはしていないこの現状は、僕にとって確かに成長なのだった。

神格化宣言

 精神的活動の怠慢。近頃の僕は、しなければならないことを期限いっぱいまで引き延ばし、あたかも小学生の夏休みの如く、一気に終わらせるという悪しき習慣が日常化してしまっている。
 期限のあるものでそうなのだから、当然、期限のない―読書やアニメ鑑賞―ものも停滞気味だ。およそ日々を惰性で生きているかのように過ごす我が身は駆逐せねばならない。死に時を越え、コンテンツ制作に全勢力を注ぐべき己を野放図にして良いはずがない。
 もはやかつての死に時の恩寵は風前の灯火となり、今こそ【次なる死に時】を呼び起こすことが至上命題。
 無論、そう簡単に訪れるものではないのは皆が知るところである。そこでまずは、堕落した生活態度を一新し、かつての気概を取り戻し、そこでやっと死に時を求めなければならないのだ。武士が刀なくしてどうして戦で死に時を得ようものか。どだい無理な話である。腹が減っては戦はできぬといった態度で、まずは戦況を整える。すべてはそこからである。
 では何から始めるか。やはり先に述べた読書やアニメ鑑賞を再び盛んとするのが得策だろう。これは自身の作風はおろか、人生にまで影響を与えるのだから、しない手はない。そしてまたこれらは数字として達成度が明確でもある。高等遊民を少なからず志す僕が、それらをサボっていたという極めて遺憾な現状を打破し、それを、いささか鼻につく言い方をすれば、アウトプットする。逆に、僕からアウトプットなるものがなされない時、それは確かにサボっている事を示すのだ。

 ここでは一切、嘘をつかないと宣言しておく。もちろん、幾分かの曖昧さも中には含まれているが、それは致し方のない事として目を瞑っていただきたい。
 僕の手元に一冊の本がある。つい先日購入したのは良いものの、一度も読み進めていない正真正銘「積読」となったちくま学芸文庫『古代地中海世界の歴史』。
 僕は個人的に歴史分野に少なからず関心があり、日本史なら公家くげ・天皇・朝廷。世界史ならば、古代地中海世界―メソポタミア・エジプト・シュメール人・ギリシア・ローマ―だ。
 この267ページを何とか読了し、Twitterで投稿することをここに宣言しよう。
 証拠に今からTwitterを観に来てもらえれば、この文章が「読み終わることが確約されてから始めた」ものでない事が証明されているだろう。
 現時点では僕自身まだ読み始めていない為、遂行できなかった事もしっかり分かる仕様になっている。この一歩が明日への一歩となると信じ、ひとまずの終わりとする。


2020年6月23日、「カクヨム」において本稿を非公開に設定。

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