純潔と勤労、疑似。
本当は4/27にちなんで、哲学の日か、もしくは「エリーゼのために」が作曲された日という事を書き綴ろうかと思ったけれど、連日、やや真面目な話題が続いているので、この辺りで少し息抜きしようと思う。
さっそくだが、僕は綾波レイを崇敬している。
他の二次元美少女へ愛を覚えているとしたら、レイには間違いなく敬いがある。
なので推し活よろしく彼女のグッズを買い漁るなどという行為はしていない。制服、プラグスーツ(白)、私服、ぬいぐるみ、といったように、形態が異なれば買う。その程度。
先日、そこにシンエヴァ・黒プラグスーツのレイを増やした。
造形はそこそこだが、僕がこのフィギュアを買ったのは、他でもない、「農作」シーンのものだから。
縄文時代からそうであるように、フィギュアにはその文化にとっての理想が当てはめられる。レイが“汗水たら”して“働く”姿は、カブが示すように、豊作の象徴そのもの。このフィギュアを通して、僕はレイを愛で、そして祈る。
文字通り純粋無垢。ロリキャラに感じる純粋さとは全く異なる。ロリは<まだ>穢れを知らないだけ。レイのこの姿は、人類の原初という意味で貴い。
だが、原罪もまたここに表れているように僕は感じる。
彼女がプラグスーツの上に農作業用の服装を重ねている点。そして劇中の様子。
劇中、彼女は植え、そして収穫する。
だが、両方とも彼女が最初から最後まで育てたものではない。それまで以前にその地で幾人かの老婆が働いた結果を、レイは手伝ったに過ぎない。
プラグスーツと農作業服というアンビバレントは、ともすれば黒いスーツの方が強い印象を与える。
それは素肌にピッタリとフィットしている。まるで彼女のアイデンティティのように。
つまり、収穫物も、農作業服も、借り物や疑似体験でしかない。
僕は2021年にカクヨムで『エヴァに「綾波レイ」は必要だったのか』という短い批評を投稿している。
だが、その時も、これほどまでに彼女の在り方に批判的意見を述べた記憶はない。
しかし、これは彼女の存在を否定している訳ではない。
やはりこれも人間の原初なのである。
人間が自然を造ったのではないのだから。全ては借り物に過ぎない。
やらない善よりやる偽善、という言葉もあるが、もしも彼女が第三村において農作業を行っていなければ、彼女はどうなっていただろう。きっとアニメシリーズから何も変わらないままだったに違いない。
彼女は、ミニマリストが憧れるような殺風景な部屋での日々(世紀末)ではなく、人類の原初的な田畑に立ち返り、「おはよう おやすみ ありがとう さようなら」の意味を知る。
そっくりさんと呼ばれた彼女が、彼女であろうとした日々は、疑似が本物へと移り変わった日々でもあった。
それが人類への祝福であり、彼女が一から得ることのできた収穫物なのだ。新世紀を迎えるための準備はなされた。主は来ませり。
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