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オットー・ワグナー(1841~1918)

(人物概用)
いま街で普通に見る箱型の建物の直接の先祖が、19世紀末から1920年代にかけて生み出された近代建築です。その成立過程の冒頭を代表するひとりがウィーンのワグナーで、「近代建築の父」や「開拓者」などと呼ばれています。当初は旧来の歴史様式に倣う設計に柔秀でていましたが、教職に就いた1890年代なかばからは、新時代にふさわしい創作態度を主張し、作品も予言的な特徴を明瞭にしていきます。しかし最後まで古典的な基本形式を守り、表面装飾を好みもしたので、未進化な近代建築と評されました。そのことが、世紀末〜ポスト世紀末という過渡期のみが生みえた、かけがえのない魅力を作品に与えてもいます。


(本文)
19世紀なかばに大幅な都市改造が始まったウィーンでは、街の顔ともいえる多くの建物が、「中世ゴシック様式」や「近世バロック様式」などで建てられました。それらを設計したのはワグナーが美術アカデミーで指導を受けた教授や、卒業後に師事した建築家たちでした。彼は、過去の様式を真似る設計方法を学び、その優等生一として出発したのです。

~ゴシック様式~
ゴシック建築とは中世ヨーロッパの教会建築の1つで、ロマネスク建築を発展させた様式です。ゲルマン人の一派でドイツ周辺に定住した「ゴート族」からきています。古代ローマ文化を復興させようとしたルネサンスの時代に、従来式としてのゴシック様式を否定したのが由来です。
直訳すると「ゴート族のように野蛮な」という意味である。

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~バロック様式~
イタリアのローマで始まった芸術運動「バロック」(16後期-18世紀中頃)における文化・芸術の表現形式です。トリックの神秘性や絶対王政の絢爛さ、市民社会の現実性等の、当時の世相を反映した複雑多彩、そして劇的豊麗な建築・工芸・絵画・音楽・演劇・文学等を生みだし、イタリア各地から欧州、そして世界に広がりました。バロックとは、直訳すると「ゆがんだ真珠」という意味です。

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独立して順調に業績を重ね、成功した建築家となり、53歳にして母校の教授に招かれました。そこで学生たちに「変わらなければ」と語り、「目的、材料、構造を熟慮した上で生ずる形態が、現代にふさわしい新たな芸術様式となる」としました。それは、晩年をウィーンで過ごした、建築家で美学者のG・ゼンバーの思想を踏襲していましたが、わかり易く整理されていたためもあって国際的に影響力をもちえました。過去の様式という規範から逃れようとするこの時期、新たな具体的規範よりも、まずはこうした創作態度の基本の方が拠り処となり易かったからでもあるでしょう。作風も、様々に新時代を意識するものとなり、「流行の太鼓持ちになってしまった」などの批判も浴びました。この世紀末、ベルギーやパリなど各地に「変わらねば」と考え実践する人々が登場し、近代建築へと向かう変化が確かなものとなりつつありました。その中で最も年長に属す彼は「少しずつあたらしい様式ができる」と考え、基部と軒庇をもつ古典的三層構成や、対称軸をもつ平面や正面、壁面装飾などを、最後まで守り続けました。だから、旧弊から逃れ切れていない古臭さを感じさせ、「理論にくらべ作品は不徹底」とも評されます。しかしその新旧が絶妙に入り混じった予言的性格が、独自の豊かな表情となっています。

彼は、理解ある市長のもと、運河に蓋をするなど、ウィーンの都市空間を新時代に向けて積極的に変えようとしました。特に地下鉄や橋の立体交差が一望できる、いわば新しさの要所たる景観構想は、後のイタリア未来派をも刺激しました。

イタリア未来派
フトゥリズモとも呼ばれ、過去の芸術の徹底破壊と、機械化によって実現された近代社会の速さを称えるもので、20世紀初頭にイタリアを中心として起こった前衛芸術運動です。

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各国で世紀末に目立ったのは、内外にあふれる植物的形態である。過去の様式に替えて、成長し繁茂する生命的な表情を真似たのでした。30代のH・ギマールによるパリの地下鉄駅は、全体が大地から生え上がる植物そのものと化していました。50代のワグナーは、この流行を限定的な方法で採り入れました。オーストリア世紀末様式の象徴マジョリカハウスでは、萌え上がる真っ赤な花が、目を射るように迫ります。しかしそれは、外壁に貼られたタイルの模様にすぎません。全体の構成や輪郭はむしろ保守的なほどにルネサンス以来の基本を守り、壁には矩形の窓が規則的に並んでいました。当時のブリュッセルやパリの、同様な都市住宅では、植物的な輪郭を誇示した入口枠や、空中で曲線状に乗り出す窓が全体の印象を一新していました。ワグナーの花模様は、旧来的な基本を保つ中で、壁表面の存在感だけを軽やかに強調してみせる効果が独特でした。

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ウィーン郵便貯金局では同じことがより確かとなっています。ここでも外観は古典的形式を守り、さらに全面石貼りですが、重厚な存在感からは遠いものでした。外壁仕上げの石板を留めるボルトの頭が露出され、その無数の点が目に心地良いからです。それ以上に、個々の石片が、ピンのようなものでいかにも簡易に取り付けられただけという効果に近づいているからです。大地に根差すどっしりとした存在感は後退し、全体を、一枚の薄い表層だけが「ふわっと覆った」とでもいうべき表情が支配しています。それは内部の出納ホールではより徹底されています。ガラス屋根に加えて、床までもガラスブロックとしたため、「均質な半透明の膜で軽やかに包まれた」ような体験を与えます。しかしこの営業室も、中央が高くて両側が低い、伝統的な三廊式教会の記憶を残しています。つまり内外ともに、歴史上の基本形式に、「軽やかな包み込み」の効果を重ねているのです。ワグナーはこの20世紀初頭、世紀末に装飾によって達成した造形効果を、手段を替えて、さらに推し進めました。

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近代建築の成立とは、1920年代の白い箱型様式の登場だとみなせます。それは単に無装飾な幾何学的立体という以上に、内部を「薄い膜で包み取った」ような表情をもつ点で斬新でした。ワグナーは、表面装飾も含め、19世紀以前の設計方法を様々に残しながら、その範囲内で、本体とは別の「表面だけが軽やかに包む」効果を確実に実現していた点で、来るべき様式を具体的に先取りしていたといえます。

オットー・ワグナーは、権威的なモニュメントとしての建築要素が強い様式建築から、工業素材の発展による近代建築へ、移行する際中に活躍した建築家であり、両方の要素をうまく取り込んだ建築手法は勉強になります。
興味がわいた人は是非、オットー・ワグナーについて調べてみてください!。

~オットー・ワグナーについてもっと知りたい方におすすめの本~

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