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『築山殿異聞』(1/3)出自と居住地

■築山殿略歴


天文9年(1540年) 誕生(徳川家康の2つ上。同い年説あり)
天文11年(1542年) 12月26日徳川家康誕生
弘治3年(1557年) 1月15日松平元信(後の徳川家康)と結婚
永禄2年(1559年) 3月6日長男・信康誕生
永禄3年(1560年) 5月19日「桶狭間の戦い」後、岡崎へ。
永禄3年(1560年) 6月4日長女・亀姫誕生
永禄5年(1562年) 1月15日 「清須同盟」
           徳川家康と離婚(従来説)
永禄13年(1570年) 離婚して諸国放浪中に2度再婚するも離婚と死別
天正3年(1575年) 放浪中に大坂で発見され、岡崎に戻される。
天正6年(1578年) 2月4日『家忠日記』に「信康御母さま」
天正7年(1579年) 8月29日自害(「築山殿事件」)

■「築山殿」の呼称


 今川氏の研究者で知られる小和田哲男氏が「地元には「瀬名姫」と呼ばれていたとする伝承がある」と紹介し、1740年成立の『武徳編年集成』に「関口、或いは瀬名と称す」とあることから、ドラマや小説では幼名を「瀬名姫」「於瀬名」(他には「於福」「阿鶴」「鶴姫」など)とする。

 結婚後の駿府時代は「駿河姫(駿河御前)」、岡崎時代は「築山殿(築山御前)」、離婚後は「信康殿御母様」(『家忠日記』)と呼ばれていた。

・「駿河御前」という呼称をほとんど耳にしないのは、もう1人の駿河御前(朝日姫)との混同を避けるためか?

  なお、「関口」も「瀬名」も父親の名字(本貫地の地名)、「築山」は愛知県岡崎市の地名である。

『和名類聚抄』「駿河国」

関口:愛知県豊川市長沢町関屋(旧・三河国関口庄)
瀬名:静岡県静岡市葵区瀬名(旧・駿河国庵原郡瀬名郷西奈村)
関口:登屋ヶ根城址。慶忠院跡に登屋ヶ根城主・関口刑部の墓。
瀬名:本来の地名は「西奈(せな)」であるが、現在は「瀬名(せな)」「西奈(にしな)」と表記する。父親は瀬名貞綱の弟であるが、関口御新造(関口刑部少輔(幼名・慶王)の娘)の婿養子となって関口刑部少輔家を継ぎ、関口氏純と名乗った。

■徳川家康と結婚前の居住地


瀬名氏居館は「リンク西奈」(静岡県静岡市葵区瀬名)付近にあった。
関口屋敷は駿府屋形町(静岡県静岡市葵区屋形町)にあった。

■徳川家康と結婚から自害までの居住地

(1)駿府:駿府人質屋敷(徳川家康の駿府人質時代)
(2)岡崎:築山の築山御前屋敷(徳川家康の岡崎城主時代)
(3)浜松:引馬城→浜松城(徳川家康の遠江国侵攻期)
(4)(徳川家康と離婚後)諸国放浪:伊勢国→山城国→越前国→河内国
(5)岡崎:岡崎城の東曲輪(徳川信康の岡崎城主時代)

(1)駿府:駿府人質屋敷


・駿府人質屋敷
(遠江衆・孕石元泰と妹婿・北条氏規の屋敷の間)
 ・説①:「宮之前」(式内・小梳神社(少将井神社)の旧鎮座地付近)
 ・説②:「宮ヶ崎」(静岡浅間神社付近)
 ・説③:祖母・於富の方が住んでいた知源院(現・華陽院)付近

幼い竹千代(後の徳川家康)を育てた祖母・於富の方が住んでいた知源院(静岡県静岡市葵区鷹匠2丁目)は、彼女の法名「華陽院殿玉桂慈仙大禅尼」により、玉桂山華陽院と改名された。

「横田(横太)駅」はここではなく、鷹匠の南東の静岡市葵区横田町にあったという。
「駅家」は奈良官道に置かれた。奈良官道が現在の北街道であれば、この位置だと考えられる。
「鷹匠」は鷹狩に使う鷹を育てる人たちが住むことによって、新たに形成された町である。
奈良時代には「鷹匠」は無く、今の「鷹匠」と「横田町」をあわせて「横田」だったのであろう。

(2)岡崎:築山の築山御前屋敷

駿河御前とも築山殿とも呼ばれたが、築山殿とは岡崎来住後は総持寺の築山の近くに住んだためという。

新編岡崎市史編集委員会『新編岡崎市史 20 総集編』
籠田総門

築山御前屋敷の位置
・説①:築山稲荷付近
 ・愛知県岡崎市康生通南3丁目
 ・現在の岡崎康生郵便局
・説②:総持尼寺付近
 ・愛知県岡崎市康生通南3丁目
 ・現在のNEKKO OKAZAKI(NTT西日本岡崎ビル):岡崎康生郵便局の南隣
・説③:西岸寺
 ・愛知県岡崎市康生通南3丁目
 ・総持尼寺の西隣(道を挟んで向かい)
※西岸寺は、慶長15年(1610年)、本多忠政が父・本多忠勝(桑名城主)の菩提を弔うために建てた寺(本多平八郎家の菩提寺)である。以後、本多家が移るたびに移転し、本多氏が岡崎城主になると、築山御前屋敷跡に建てられたという。

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